茜色の吐息で









落ち葉をしおりに、読書の秋。
掲示板に張られた朱色のポスターを一瞥して、本棚の間を奥へ奥へと進む。
背の高い本棚に蛍光灯の光が遮られて暗い上、埃っぽい。
どこの担当場所でも掃除当番の生徒は見えるところだけきちんとやったふりをするのが上手だ。
めったに人が来ない古典文献とか美術関係の本棚の周りなど、まっさきにさぼりの対象にされる。
目当ての古典の本はなかなか見つからない。
運動部のかけ声、演劇部の発声の、奇妙に絡み合いひとつになった音が聞こえてくる。
あんなふうなぴしっとした真摯な態度とか、一生懸命さは、はるか遠くのものだ。
古びた朱鷺色の表紙をようやく見つけ出した。
分厚い本を手に、校庭が見下ろせる窓側の机を陣取る。
エメラルドグリーンの樹皮で固められた校庭の地面にもまぎれることの無い、
若草色の頭を見つける。
高身長の生徒が集まったバレー部の中で、彼女はひときわ背が高い。
その所為か、彼女は目立って見えた。
図書室には夕日がまろやかに差し込んで、室内を熟れた柿色に染め上げている。
季節柄、まだヒーターはついていない。
少し肌寒くて、紺色のセーターを着込む。
上から被って両腕を出して、それから三本線のセーラーカラーとタイを引っ張り出す。
今日のバレー部のメニューは基礎体力作りらしい。
瞬時にその体勢になる必要のある動きなのだろうが、
素人目にはどうしても可笑しく見える動作を何パターンも繰り返しながら、
いちにさんし、の声に合わせて校庭を何往復もしている。
吐く息はまだ白くはならないが、黄昏どきの空気は肌に冷たいというのに、
部員たちは皆、半袖からみずみずしい腕を露出させている。
それでもなお、汗をかいているのが額に張り付いた髪でわかる。
中でもキレのいいすばやさで、一番よく動き回っているのがあのゾロだ。
セーターの袖を手の甲までひっぱりあげながら、元気だな、とサンジはつぶやいた。





放課後の図書室の人はまばらだ。
先週までに提出しなければならなかった古典のレポートは手付かずのまま放置して、
頬杖で真横を向いて、練習に後輩の指導にと緑の頭が活発に動き回るのばかり目で追った。
枝豆のさやくらいに見える姿は、まぶしい。
似たような体がいくつも動き回る中で、彼女だけ浮き上がって見える。
ささいな変化ですら見逃してしまうのが惜しくて、まばたきの数を減らしてみた。
すると目が乾いて、しょぼしょぼしてしまって、まぶたをぎゅうと押した。
また、彼女の姿を追いかける。
彼女はとてもきれいだ。





そうするのに夢中で気づかなかったが、向かいの机に中学生らしき二人組が座っていた。
「あ、みてみて、ロロノア先輩だ」
「ほんとだほんとだー。今日バレー部外なんだね」
「走ってるよー、かっこいー」
同じことをしているとばれてしまうのが嫌で、古典の本を枕につっぷした。
窓の外になんか興味ありませんよ、というポーズだ。
黙ってればそこそこ可愛いのにな。
上目で器量をはかり、目を閉じる。
「あ、こけた。あれうちの学年だよね?」
「ロロノア先輩が・・・」
「キャー、やさしー。手ぇ貸してあげてる」
「やー、なにあれうらやましー」
「まじうちバレー部入ろっかな」
「動機不純すぎだよー」
緑頭のロロノア・ゾロは女子校にあって女子らしくない生徒で、おかしな人気がある。
無頓着でさばさばしていて、そのくせ誰にでも人懐こい笑顔を向けて、優しいからだろうか。
だから本物を経験したことのない女の子に、夢を見せられるんだろうか。
頭のなかがもやもやして、よろしくない気分だ。
「あっねぇそこで寝てる人、先輩の友達じゃない?」
「あー、金髪の」
「いっつも一緒に居るよねーずるいし」
「たまに代わってくんないかなー」
「ばっか無理に決まってんじゃん、わかるけど」
そんなふうに羨ましがられたってちっとも嬉しくない。
ただ耳障りで不愉快なだけだ。
夢を見るばかりの彼女たちを軽蔑しながらも、
自分はそんな立場ではないと自分自身さえ冷ややかに見下ろしている。
きゃっきゃと黄色い声交じりの実況中継、及び妄想発言はいつまでも続く。
「あーはやくロロノア先輩と結婚したーい」
「カリフォルニア行けばできんだよね」
「行くよあたしは」
聞きたくないのに聞こえてくる声を耳に、逃避しようとしているうちにいつの間にか、
サンジはうつらうつらと眠ってしまっていた。





「おい、帰るぞ」
ごつんと頭を叩かれて、びくっと上体が跳ね上がった。
さっきまで遠くに眺めていた緑頭が、すぐ傍にあった。
「・・・ゾロ」
顔の筋肉がこわばっていて、口がうまく動かせなくて、不機嫌な声になってしまった。
空気はますます冷えていて、サンジはぶるりと身震いをした。
「部活は?」
「とっくに終わった」
ゾロはすでに制服に着替えているゾロは呆れ顔だ。
のろのろと立ち上がり帰り支度を始めるサンジを、じれったそうに見ている。
サンジはレポート提出は諦めることにして、ずしりと重い本を手にする。
「レポートやんなかったのか?」
「んー」
適当な返事をして奥のほうの本棚に向かう。
図書室にいた生徒はもう皆帰ったようで、誰の姿もなかった。
「お前がレポートやるから図書室に迎えに来いって言ったくせに」
場所わかんなくてさんざん探したんだぜ、とゾロは文句を垂れる。
校内のどこに何があるのか、ゾロには普段縁の無い場所はわからない。
だから心配で、できるだけいつも傍にいる、というのもひとつある。
ゾロに憧憬を抱くあの子たちは、まさか彼女が方向音痴だなどとは思っていないだろう。
「図書室ぐらい覚えとけよ。来たことないわけねぇだろ」
元の場所ではない棚に適当に本を押し込みながらサンジは言った。





戻りながら本棚の間を歩くサンジのほうに、ゾロが歩みを進める。
左肩に、ゾロの乾いた肌の手が伸びる。
節の目立つ手はしなやかで、けれど女の子らしいとは言いがたい。
何の前触れもなく、表情は少しも変わらないままのゾロが、何をしたいのか、サンジにはわからない。
スローモーションで近づいてくるように見えるその手を目に、緊張で体が強張っていた。
動くことができなかった。
「折れてる」
しゅ、と肩を前から後ろへ、撫でるようにされた。
セーラーカラーがめくれていたのを、直してくれたのだ。
背中のほうに垂れた分まで揺れる。
「・・・ありがと」
こういうふうに触れられるのは、正直、困ってしまう。
ゾロの手は大きくて、あたたかかった。
瞬間、体がびくりと震えたのをゾロはおかしく思わなかっただろうか。
「帰るぞ」
ゾロはさっさと荷物を手に身をひるがす。
プリーツスカートが愛らしい弧を描いた。
けれど濃紺のセーラー服は、はっきりいってゾロには似合わない。
図書室の扉に向かう彼女のしっかりしたつくりの背中を見ながら、サンジはぼんやりとそう思った。
触れられた肩には、その感触がくっきりと刻み込まれていた。
右手で確かめるように、熱い左肩を押さえた。





「昨日、中一に注意したんだけどさ」
「なんて?」
「部活真面目にやれって。そしたらその場は殊勝な態度取ってんだけど、後は全然変わんねぇの」
「あー、そりゃ喜んでんだよ。ロロノア先輩に注意されちゃったー、って」
「そういうの訳わかんね。やれっつったらキャーとかわーとか言ってねぇでやれよ」
「しょうがねぇよ、お前かっこよすぎだし。浮かれるのも仕方ない」
「部活中だぜ?なに考えてんだ」
ゾロはいらだって唇を口の端を下げる。
サンジは、そんなゾロに苦笑いをする。
中高一貫のこの学校では、部活の中高合同で行っている。
特に中学生の、分別のなさにゾロが憤慨するのはいつものことだ。
それを聞けるのはサンジだけであるということに、優越感を感じているのも事実だ。
「次、音楽か」
「ああ、はやく行こうぜ」
ゾロをつれて廊下を歩くと、なんだか騒々しいのがサンジは気に入らない。
すれ違うゾロの後輩たちは会釈をしてくるし、声を出して挨拶する者もいた。
そういう場合、たいてい挨拶をしてゾロの返事を得た後、なにやらわざとらしく走り去る。
それで友人の輪の中に駆け込んで、もーまじ緊張した、とかなんとかコメントを寄せるのだ。
サンジにはうざったくてたまらない。
ゾロの周りをちょろちょろされると一緒にいる自分も迷惑だから、
という言い訳はどこまで通用するだろう。





奥まった場所にあるせいで人気のない階段を並んで昇っていると、ゾロが踊り場で呼び止められた。
「あ、あの、ロロノア先輩!」
この前の図書室で、向かいに座っていたうちのひとりだと、声を聞いてすぐにわかった。
嫌な予感がした。
「なに?」
「ちょっと、いいですか・・・?」
彼女は顔を真っ赤にしてもじもじと足を動かしている。
なんとなく、予想がついて、でもどうすることもできない。
ちらりと段上に目をやると、図書室のもうひとりも心配そうにこちらを見下ろしていた。
「いいけど」
「あの、ここじゃちょっと・・・」
ちらり、とサンジのほうに目配せをしてくる。
軽く笑いかけて、うなずいてやった。
「じゃあ先、行ってるな。荷物持ってっといてやるよ」
ん、と手を差し出す。
「いや、いい」
「そうか」
足取り軽くリズム良く、残りの階段を上っていく。
ものわかりのいい先輩の友人、のふりをする以外に、サンジにどうできるだろう?
まったく気にしていないふうを装いながら、心のなかは千々に乱れている。
階段のてっぺんのあたりで、好きです、とどもりながら言うのがかすかに聞こえた。
音楽室に続く4階の廊下の窓は大きく、まっしろな光が多量に取り込まれている。
そんな場所は歩きたくなかったから、駆け抜けた。





「さっきの、聞いちゃった」
放課後の教室、ふたりきり。
わざとからかう声音で言った。
ゾロは教卓に無遠慮に座って、長い足をもてあますようにぶらぶらとしている。
「あぁ・・・」
面倒くさそうにゾロは答える。
今日からテスト一週間前なので、部活動は禁止だ。
それでゾロはなんとなく時間をもてあましているのに、サンジも付き合っている。
「それ、どうすんの?」
ゾロの隣には、渡されたピンク色の封筒がおいてある。
内容はおそらく、ずっと好きですとか、あこがれてましたとか、そういうやつ。
自分の理想をゾロに押し付ける、おこがましい手紙なんだろう。
「どうしようもねぇだろ」
「答えてやんねぇの?」
「答えるも何も、だってあの子のこと何も知らねぇし」
「・・・じゃあ、知ってる子だったらどうしてた?」
教壇に腰掛けて、目の前の机に張られた名前とクラスのシールを爪でかりかり剥がす。
あの子に羨望を抱いているのはサンジのほうだ。
あの子の立場だったら、何の枷もなく、ゾロにこの激しい情動と戸惑いをぶつけられるのに、と。
「そうだな・・・」
閉じた窓から差し込む夕日がゾロの横顔にくっきりとセピア色の陰影をつける。
このままずっと化石のように、永遠にふたりの時間をとどめておけたら、しあわせだろうか。
呼吸さえ深く響く静けさのなか、ゾロは口を開いた。
「考える、だろうな」
迷いのない口調が、サンジの心を固く踏みしめるようだ。
「かんがえる」
ちいさく復唱して、その意味をかみしめる。
「そいつを知ってれば知ってるだけ考える。それで、ちゃんと返事をするよ」





ゾロが教卓からひらりと降りる。
わずかだった距離が、またさらに狭まった。
「ゾロ」
すらりと立ち上がり、全身に力をこめる。
振り絞る、という感覚が面白いくらい理解できる。
しっかりとゾロを捕らえて。
夕日の緋色が深みを増して、教室のすべてが茜色に塗り替えられていく。

「好きです」

静寂が深まる、間があった。
それからゾロの目が、わずか、翳ったように見えた。
耐えられなかった。
「じゃ・・・」
なんとか適当なことばを告げて、できるだけ平静を装って教室を出た。
廊下は進んでも進んでも終わらず、いつまでも茜色の世界が連なっていた。
段々早足になって、しまいに駆け出した。
ようやく出口に繋がるはずの真っ黒な穴のような階段が見えて、こけつまろびつ降りる。
かんかんかん、と足音が妙に高く響いていた。
救いなど、はかりがたき恐怖の向こうにしかないのだと気づいた。





その夜サンジは、うまく眠りにつけなかった。
浅い眠りを何度も何度も繰り返して、ようやく朝になるまでの時間は、恐怖が麻痺するほどに長かった。
学校を休んでしまいたかった。
けれど今日どうなるのか知りたいという好奇心にも似た気持ちが、恐怖に勝っていた。
この期に及んで期待をしているのだ。
迷えど足は進む。
昨日あんな臆病に逃げた足が、今朝はサンジの中で一番希望を忘れない場所らしい。
朝の空気はひややかで、一層頭がすっきりとした。
いつもより少し早く着いた教室は、昨日の赤橙などなかったように清々しく透き通っていた。
まるで昨日のことが夢であったかのように、サンジにも思えるほどに。





ゾロが、教室に入ってきた。
朝練の後らしく、汗ではりついた真っ白い体操服からうっすらと下着が透けている。
ゾロですら昨日のことなんかなかったみたいにいつもどおりだ。
机の間を縫って近づく。
ためらうことなく、いつもどおりみたいな声を作って。
考える、と言ったゾロの答えを得るための、これは挑戦。
「おはよう」
ゾロは少し視線を泳がせてから、うっすらと微笑んだ。
「おはよう」
いつもと変わらない、笑顔だった。





何も変わることはなかった。
まるであの茜色の世界などなかったような、すべてが白紙の朝。
柔らかな檻の中、閉じ込められたままで。
徐々に生ぬるくなっていく空気を甘んじて肺いっぱいに吸い込んで、熱を増す想いなどないふりをして。
子羊の群れの一頭を演じるしかないのだ。
すべてを覆い隠すようにそっと、サンジは茜色に染まったままの溜息をついた。







2004年ゾロ誕記念。
全部つめこむのは無理でした・・・。
ニョ×ニョ。楽しい以上に書くのつらかった。
このために私はここのとこずっと周りの女子どもの群れを必死で観察したですよ。
後輩の科白とか70%聞いたまんまです。一番楽しく書いたのは言うまでもない。