あなたに似ている花だから
「ゾロ、いますか?」
まだ庭の梅の木に蕾もつかない頃だった。
お嬢様!、とめったに大きな声を出さないばあやに声高に呼ばれて、
ゾロは慌てて声のするほうへ向かう。
丁度女学校から帰ってきたばかりで、矢絣の着物にえび茶色の袴のままだ。
突然の来訪に驚いたのは、ばあやだけではなかった。
すらりと障子を開け放ってみれば、明るく冷たい冬の空気とともに、縁側に懐かしいひとのすがた。
「サ・・・」
息を呑んだ。
それと同時に、幼いころでさえ、一度だって呼ばなかった名前が、唇からこぼれかけたのも飲みこんだ。
口にしたら淡く消えてしまう冬の幻想のようで、最後まではその名前を紡げない。
呼んで、返事を聞いて、そうしてそこに居るのがほんとうにあの頃のひとであることを確かめたい。
なのに言葉が出てこない。
伝わるそのまえに、手を握られた。
「ちょっと、来て」
「ちょ・・・」
抗う暇も無く強引に連れ出されてしまう。
ばあやはにこにこと見送っている。
誰かに手を繋がれるなどいつぶりだろう。
臆面も無く当たり前のこととしていつも、彼の手が繋がれていたのが思い出される。
彼の手を掴む力は、昔からこんなに強かっただろうか?
背丈だって昔はゾロとそう変わらなかったのに、今では見上げなければ顔が見えない。
いつの間に、こんなふうになっていたのだろう。
近所に住む幼馴染のサンジとは、覚えていないくらいちいさな頃からの、仲の良い遊び相手であった。
それがいつからだろうか、ろくに顔も合わせなくなっていた。
ふと思い出しては、寂しい気分になったけれど、自分から会いにはいけなかった。
どうしてだかはわからない。
サンジも、会いに来ることはなかった。
それなのに、何故、突然に。
振りほどくことができないまま手を引かれて導かれる道は、昔ふたりでよく通った道。
ゾロの家からサンジの家に渡る範囲全体が、ふたりの遊び場だった。
晴れた日はばあやの注意も聞かずにすぐに駆け出して行って、サンジと遊んだ。
サンジが一番好きな遊びはかくれんぼで、ゾロの一番は鬼ごっこだった。
毎日毎日、日が暮れるまで泥だらけになってわんぱくをして、手を繋いで家に帰った。
そんなふうにふたりで過ごすのには慣れっこだったのに、
今、サンジの斜め半歩後ろ歩きながら、
せめて髪のリボンを結びなおしてくればよかったと思うのは、どうしてなんだろうか。
この道はどこを見ても遠い日の残像が浮かんでいる。
握られた掌に汗をかいていることを、サンジが気づかれなければいいと願った。
やがて着いた場所は、サンジの屋敷の庭であった。
広い庭の中、片隅の一角にサンジに迷うことなく足を進める。
お互いに、ずっと黙ったままだ。
冬の庭はとても静かで、春を待ち、ひっそりと力を秘めている。
この庭は、きっとかつて子供であったふたりが走り回ったことを覚えているのだろう。
サンジが足を止めた。
「・・・・・・手」
うつむいたままでゾロが呟く。
「え?」
「・・・手、離して」
「ああ、悪い・・・」
思い出したようにサンジは握りっぱなしであったゾロのやわらかい手を解放した。
サンジの手も、ゾロの手も、じんわりと湿っている。
ゾロは握られていた右の手にそっと左の手を寄せて、そこばかりじっと見つめた。
そこは懐かしい熱を持っていた。
顔をあげることが、できなかった。
またふたりとも黙ってしまって、重苦しい時間が穏やかに流れる。
「これ」
気まずい空気を払拭する声で、サンジは言った。
「今年もよく咲いたから、見せようと思って」
ふたりの足元には、水仙が石に囲まれて植わっていた。
春を待つことなく咲く水仙は、しゃんと背筋を張って健気に可憐に咲いている。
凛として、清らかに、寒さに負けることもなく。
そういえば去年もこの季節、ゾロの家には水仙が飾られていた。
気にも留めなかったあの花は、ここのものだったのだろうか。
「・・・どうし、て」
白と黄色の花の群生。
彼はどうして、わざわざこの花の開花を告げに来たのだろう。
「・・・・・・どうして、わたしに」
この花を見せようと思ったの?
うまく訊けないのがもどかしい。
未だ、彼の顔を見ることさえできない。
昔ならけしてけしてこんなことはなかったのに。
「どうしてって、だって」
サンジの返答は戸惑うように、歯切れが悪い。
昔ならサンジも、こんなふうにはならなかった。
「だって・・・・・・」
黙りこんでしまったふたりを、水仙だけがもの言わず、そっと見守っていた。
10月の日記に書いた大正ロマンス女学生ゾロ。
未遂レベルなのがなんともアレです。
きっとゾロは子供の頃は自分のこと「おれ」って言ってたけど
女学校に通いだしてから「わたし」って言うようになったんです。
そんなところでサンジが、ゾロもかわってしまったことを思い知るんですきっと。