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結婚しててもいいよ。
そんなのおれ、別に、気にしないから。
その人のこと、ちゃんと大事にしなよ。
贅沢言わないから三ヶ月にいっぺんくらい会ってくれればそれでいいよ。
食事までしなくていい。
セックスもなしでいい。
夕方くらいにさ、どっかのさびれたカフェかなんかで、向かい合ってちょっと話すだけでいいよ。
それだけでしあわせだから。
そしたらたぶんおれ、それだけで生きていけるから。
久しぶりに降りた駅で、ゾロを見かけた。
その駅は何度かゾロとの待ち合わせに使ったことがあった為、近頃は意識的に、若しくは無意識に避けていたいた。
土曜の夕方だった。
ホームに降りたとき、向こう側に見違えようのない緑の髪が、電車を待つ人波に紛れているのを見たのだ。
ゾロ!
心が叫び、心臓が大量の血液を全身に送り出す。
頭が割れそうにわんわんと鳴った。
何してんだ、早く動け、追いかけろ、でなきゃ叫べ、呼び止めろ、ゾロ、ゾロ、ゾロ!!!
轟音と共に向こう側のホームに電車がやってきて、サンジの視界から緑が消える。
再び電車がいなくなる時には、あれだけいた人々は残らず車内に吸い込まれた後で、既にそこには誰もいなかった。
サンジは動かなかった。
否、動けなかった。
今走らなければ、叫ばなければ、二度と同じチャンスは無く、再びゾロと向き合うことなど永遠に出来ないと計算高い警鐘が鳴っても、
身体が硬直して佇むことしか出来なかった。
だって、追いかけてどうする?
サンジの足を持ってしても、あのタイミングでは発車に間に合うかどうかわからなかった。
彼の名を呼んだところで、線路を二本挟んだ向こう側、しかも人々のざわめき中で、彼に聞こえる可能性は低い。
よしんば聞こえたとしても、無視されないとも限らない。
何を今更迷惑な、まだ執着しているのか、まだ未練があるのかと、ゾロは不快に思う、或いは罪悪感を抱くかもしれない。
賢いサンジにはわかっている。
ゾロがそれまでそんな素振りは殆ど皆無だったにもかかわらず唐突に結婚するなどと言い出したのは、一片はサンジの為なのだ。
怪しげな男、しかもふたまわりも年上で明らかに添い遂げることの出来ない男に引っかかって、
まだ年若い(悔しいことに、それは動かし得ない)サンジの将来は台無しになるかもしれない。
サンジ自身がそう思わずとも、奇しくもこの地上に生きている限り、周囲の人間からの手前勝手な、
しかし多数決によって正当化された一種の客観的評価というものは避けられない。
男同士というだけでも好奇の視線に晒されるのに、その上この年齢差、
更にゾロは恐らく口外し難い仕事を生業としている。
それらの混沌とした全てを想ってゾロは自ら別れを告げた。
でなければ彼がサンジと別れる理由など無いはずだった。
何故なら二人は、愛し合っていたのだから。
愛していなかったのならどうして接点など皆無の二人が、
飽きもせず疲れもせず徒労感に襲われることも無しにこれだけの月日を共有することが出来たろうか。
どれだけ遅れようとも、ゾロは約束を違えたことは一度だって無かった。
それはゾロだってサンジを少なからず求めていたということではないのか。
こういったささやかな事実を愛の証拠と呼ぶのは些か強引が過ぎるにせよ、
少なくともゾロが自分と居る時間を嫌っていなかったことくらいは証明し得るだろう。
しかしそれも又、サンジが自分にとって都合良く考えているだけなのかもしれなかった。
真実はもしかして、他の多くの恋人たちがそうであるように、
只倦み疲れ、不毛な関係を不毛と認識しただけだったのかもしれない。
普通の人々から見て普通の人になる為に役所に婚姻届を出し、足枷だったサンジを切っただけだということも有り得る。
だとしたらサンジが駆け出すことはゾロの今の生き方を邪魔することに他ならない。
もしそちらの方が真実ならば、サンジにそんなことは出来ない。
頭を掻き毟りたくなるような様々の憶測がサンジをその場に縫い止めた。
二度と来ることの無いであろうチャンスを後悔する方が、
四方に腕を伸ばし絡み付いてサンジを縛りつける一切の想念を断ち切って動き出すことよりも、
今のサンジにとっては簡単で、また誰を困らせることの無い賢い選択なのだった。
鼓膜に乱暴な振動が伝わって、ゾロが消えてから何本目かの電車が過ぎ去った。
サンジはまだ同じ場所を睨んだまま、そこから離れられずにいた。
今日この駅に来た理由は単に近くの輸入食品店に用事があったからだったのだが、
心の中にほんの1ミリの期待も無かったと言えば嘘になる。
ここを出て大通りのすぐ裏手にあるバーでゾロと出会い、その少し先のホテルで二人は初めて寝た。
会ったらどうしようという不安と、何でもいいから会いたい、姿を見たいという期待、
それに加え遭遇の可能性を斬って捨てる冷静さ、全部抱えて纏まらない思考のままでサンジはこの駅に降り立った。
まさか本当に姿を見るなんて、と思う頭では、それが辛いのか嬉しいのか口惜しいのか判らない。
あの日、初めて会えたのだって殆ど有り得ない奇跡みたいなものだ。
ゲイが集うことで一部の人間に知られているバー、けれど表立ってそういう雰囲気ではなく女性すら普通に入ってくる店へ、
サンジは大学の友人の誘いで入った。
店に足を踏み入れるまで、サンジはここがそういう店だということを知らなかった。
サンジが店のドアをくぐった瞬間、そう広くなくほぼ満席となった店中の客たち、店員までもが此方に目をやった。
ある者は丹念に品定めするような不躾な視線を、ある者はほんの一瞥を寄越した。
訳がわからずサンジはちらと友人を見遣るが、彼は平然として2つ並んで空いたカウンターの席へサンジを促し、
マスターお久しぶりと、サンジが見たことのないような媚びた笑みを向けた。
マスターと呼ばれたいかつい黒服の男は小さくいらっしゃい、と頷いた。
今日は見たことのない友達を連れているなうんあのねこいつ女好きなのまたあんたはそういう悪戯が好きだねうんだって楽しいんだもの。
途端に隣に座るまともだと思っていた友人が、薄気味悪く見えてきた。
一体何だっていうんだ。
この日店内に女性の姿は無く、どこの席でも一見穏やかに、
しかしどこか異様な雰囲気の中で男同士が連れ立って会話を愉しんでいた。
不快だった。
ストレートの強い酒と煙草の煙とで、混乱と吐き気を抑えた。
最近いいこと無いって言ってたよね、楽しい所連れてってやるよ。
彼はそう言ってサンジを連れ出した。
唯の無邪気な悪戯として自分をここへ率いたのなら感情に委せて帰る事も出来るが、
彼にまだ裏があるならばそれを確かめぬうちに去るのも癪だ。
もしサンジに気のあるような素振りを見せたら、意趣返しに伸ばしてきた手を叩き払ってやる。
しかし彼は入れ替わり立ち替わり現れる男たちと愉しげに馴れ馴れしく言葉を交わすばかりで、
サンジの事など殆ど置いてきぼりにしている。
馬鹿馬鹿しい。
彼がトイレに立った時、彼に目配せした男が後ろから追っていくのを目にして、
ついにサンジは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
その足が反対側の隣に座っていた男にぶつかった。
「っと、スイマセン」
機嫌が悪いからぞんざいな口調になった。
その男は緩慢な仕草で熱り立ったサンジを見上げ、まあそうカリカリするなよと、穏やかに目を細めてロックグラスを煽った。
喉仏が大きく動いた。
その豪快さ、しかし仕草のどこか草臥れた様子に目を奪われた。
それがゾロだった。
「こういう場所は初めて?」
薄暗い店内でも、涙袋の膨らみがくっきりと分かった。
「・・・ええ」
「気に入らない?」
気に入るとか気に入らないとか、そういう問題以前の問題だ。
どうでもいいような質問の内容よりも、自分より幾らも年下であろう相手に気兼ねなく話し掛けてくる、
その気安さが気にかかった。
他の連中の窺うような媚びたやり方とは違って、生理的嫌悪を呼び覚されはしない。
しかし声を掛ける理由は他の奴らと同じく、ただそこにいたから、に他ならないかんじがする。
何故自分は彼ならば嫌な気がしないのだろうかと、不思議だった。
「どんな好き勝手したってこの中なら誰も咎めねえ。悪くないだろ?」
それからなんとなくサンジは座り直した。
新しい煙草に火を着け、次の酒を頼んだ。
トイレに立ったまま帰ってこない友人のことを忘れ、ぽつぽつとゾロと話した。
何がどうなってだったのかサンジは思い出せないが、その夜のうちにゾロとホテルに入った。
言葉で直接誘ったのはゾロの方だったが、それよりも前からサンジの目が好奇心と見せかけた実直な欲望を映していたのだろう。
「男と寝るの、はじめて?」
興奮しきったサンジがジャケットすら脱がずに勢い余ってベッドに押し倒したのを当然のように受け入れ、
しかし冷静な目でゾロは見上げてきた。
サンジは気後れしたものの、上気した頬で頷く、するとそうか、とどうでもいいことのように瞼を伏せた。
その何もかも投げ出した様子にたまらない気持ちになってサンジはゾロのふっくらとした下唇を捕らえた。
キスなら男相手だって同じだ。
ゾロの唇は肉厚という訳でも無いのに弾力のある柔らかな丸みを帯びていて、吸いつけば今まで重ねたどの唇よりも甘い。
舌を差し込むと、ゾロのそれは巧みに逃げて、ますますサンジを夢中にさせた。
服を脱がせるところから、ゾロは静かにサンジを導いた。
サンジの指がゾロの中に躊躇いがちに入っていくのを見、久々だからきついなと、極めて冷めた声で呟いた。
しかしその語尾が吐息で掠れたのをサンジは聞き逃さなかった。
ゾロの体の上に体を重ね、ゾロの肌のにおいを嗅ぐ、
疲れ果てた細胞の死骸の匂いは只の中年男の体臭の筈なのに背筋を震わせた。
皮膚は張りや艶が足らずに乾いているが、その古びた皮を一枚剥げば中には何か強く美しい生き物が居る、
そんなかんじがした。
奥まで指を入れるように促されて、サンジは黙って言われたとおりにする。
ゾロの中は熱く、狭く、しかしサンジの指に慣れだして緩んできているのも確かだった。
サンジの指先が奥の内壁にこすれたとき、ゾロは満足そうな切羽詰った息を漏らした。
ゾロの指がサンジの耳の付け根を辿ったのが合図のようだった。
サンジが緊張しながらゾロの中に入っていく、足を開きサンジに揺さぶられて心底気持ち良さそうにゾロは啼いた。
サンジもまた、未だかつて経験したことの無い絶頂感に全身を震わせた。
そうして気づけばもうサンジは取り返しのつかない所まで来ていたのだった。
ゾロに別れを告げられてから、ひと月が経っていた。
サンジのような若者にとってのひと月は短く、しかし精神の変化を得るには充分な長さだ。
散々泣いて酒と煙草で自暴自棄になって、何日も何日も眠れない夜を過ごした。
あの時足掻かなかった事をどんなに後悔しても意味が無い。
忘れもしない夕暮れ時の喫茶店、透き通った女の子の歌に彩られたあの物悲しい時間は二度と帰らない。
それなら未来を想う方が余程建設的だ。
今更みっともなく悪足掻きをする馬鹿になったところで、何が出来るわけでもない。
自分が苦しみゾロを困らせるしかない。
でもゾロを想いながら、たまにでいいから会いたいなとか、
けして叶わないであろう仄かな願い事を夢想するくらいならしたっていいじゃないか。
自分の願い事のあまりの慎ましさに、奥底に眠る浅ましさがもっと、もっとと主張する。
でも構わない。
会って話をすることすら贅沢なのなら、姿を見るだけだっていい。
ゾロがひとかけらも無い世界など、サンジには耐えられそうにない。
3ヶ月にいっぺんとか、そんなんでもきっと満足出来る、
それすら駄目ならどうしてあの時呼吸が止まらなかったのだろう?
生きていればもう一度会えるかもしれないなんて歪んだ希望は欲しくなかった。
もう一度会えたってどうせ自分はそのチャンスをものには出来ない。
あの時失意のうちに心臓が止まってしまえばよかった。
今さっきだって、なぜ彼のいとしい姿をこの目に焼き付けたままホームに飛びこんでしまわなかったのだろう。
どうして自分はまだ今、そしてこれから先をも生きていくように出来ているのかわからない。
生きている限り、サンジはいつまでも愚かな期待を抱き、がらんどうの現実に何度でも目頭を熱くするだろうに。
サンジ視点。自分を可哀想な人に仕立て上げるのは、自分。