BLIND









洗っても洗っても、皮膚細胞の重なりの奥の奥まで入り込んだ血の匂いはとれない。
例えば麝香の香りを身に纏った処で、それは体表の匂いを誤魔化すけれども気休めでしかない。
唯一、甘い生の薫りをもって穢れた匂いを忘れさせてくれた男は、自分が関係を切り棄てた。
今更助けて欲しいなどと、どの口が言えるだろう?
あれから何度愚かな期待で折り畳みの携帯電話を開いたか知れない。
冷たい機械がめったに無い着信を告げる度、自分の余りの馬鹿さ加減を冷めた目が見守る中、僅かな夢にゾロの胸は跳ねた。
そして失意と自嘲、ほら見ろ期待なんかするからだと、自分を傷つけた自分を罵る声のうちに携帯は床に放られる。
それの繰り返しだ。





ゾロはわかっている、自分が責任を放棄しておいてこんな勝手な希望を持つことは認められないと。
サンジに選ばせようというのだ、もし彼がゾロの与えた「幸せな未来」という選択肢を捨ててゾロを掴まんとすれば、
その手を取ったところでサンジが選んだことだと自分を正当化できるから。
そんな下らない卑怯な遣り口を持ち出さねばならない程、ゾロはサンジを堂々と欲することが出来なかった。
サンジを想えば想うほど、ゾロは正体の無い未来(当然だ、まだやってきていないのだから)に脅かされた。
互いに愛し愛された処で二人に先があるとは思えない。
自分に先が無いのは今に始まったことではないのだから全く構わないのだが、サンジのこととなると話が違う。
彼には向き合うべき将来がある。
サンジは猫背で悲観的な心根の持ち主の癖に、ゾロに対してはどうしてか、変な眉尻をめいっぱい下げて心底幸せそうな顔をする。
ほんのひと時を共有するつもりで伸ばした手はあまりの安らぎに引っ込みがつかなくなり、
またサンジもゾロの底知れなさにのめり込んで帰り道を見失ってしまった。
サンジのことをおもうならば、自分の手を無理矢理サンジから引き剥がした自分の理性は誉められるべきだ。
だが心の奥底が聞き分け無く泣きじゃくる。
(苦しい淋しい恋しい辛い助けて)
サンジを知る前には有り得なかった叫びだ。





慣れた仕事だ。
切っ先はぶれることなく真っ直ぐ男に入り込み、一断ちでその肉体と生命を修復不可能にした。
血飛沫が頬に触れる。
温い。
男の躰は切り口から勢い良く鮮血を吹き出し、地面に崩れ落ちた。
もうそれは名前のついた人間ではなく、其処等に無造作に放り出されたポリバケツの中の残飯と変わりはない。
手首をひゅ、と軽く返して刀についた血液を振り落とす。
人殺し!
目を閉じると聞こえる号叫は、しかし幻聴だ。
彼をそんなふうに呼ぶ者はいない。
この事実はほんの一握りの人間しか知らない。
そしてそいつらは怯えの、若しくは同類への憐れみの目でしかゾロを見ない。
ゾロ自身もそれについて何とも思わない。
誰かが誰かを葬りたい理由がある、それでだけでゾロの仕事には充分だ。
肥えた鼠の目がぎらりと光る生ゴミ臭い裏路地に、もう食まれ始めた男の亡骸を放置して闇夜に消える。
後片付けをするのはゾロの役目ではない。
それがどうなろうとゾロには関係無い。
どうでもいい。
それよりも粘ついた唾液が喉の奥に溜まって気持ちが悪い。
手の甲で頬を擦ると、乾きかけた血液が伸びて茶色く汚れた。
男は最期に愛しい者の名を呼ぶ暇さえ無かった。
もし自分が今晩同じように斬られるとしたら、誰の名を呼びたいだろうか?
天を仰げば明るい星が光る。
その光さえ、鼠の目に宿るものとなんら変わりはない。
どうでもいいことだ。
遙か昔にはゾロにも世の中にどうでもいいことなど無かった頃があった。
けれどもそれらは齢を重ねる毎に日々に紛れ、遠ざかって掻き消えた。
追いもせず、新たに創ろうともしなかった。
それらは足枷になるだけだと思っていた。
だから彼に出会うまでのゾロには、どうでもよくないことなど世の中に殆ど有りはしなかったのだ、
世界にも、他人にも、自分自身にも。





「あれ、北極星」
男同士でも躊躇無く入れてしまう黄ばんだシーツが不衛生そうなラブホテルで、サンジとはじめて寝た。
ベッドの脇に擦り硝子の窓があり、体を重ねた後全身を火照らせたサンジは裸のままで思い切りそれを開け放った。
行きずりの男とのセックスの後どうしたらいいのかわからなくて、
くすぐったい会話などしなさそうな相手を前に気まずい空気を払拭しようとしているようだった。
自分が抱いたばかりの男を直視できず、困って照れ隠しをしているようにも見えた。
さみい、とゾロが小さい呟いたのも彼には聞こえなかったらしい。
星が見えるからと、窓辺に手招きしてきた。
「こんな所でも意外とはっきり見えるもんなんだな」
ゾロは面倒くさそうにだらりと起き上がった。
外の冷たい風が、濡れた部屋を清めるようにさらう。
ぶるりと身震いして毛布を引き寄せた。
サンジはまだ身体の熱がひかないせいか、或いはその若さの為か、平気そうにしている。
「わかる?北極星、その横、北斗七星」
さっきまでゾロの身体のあちこちに触れていたサンジの指先が、
世代交代を面倒がる皮膚細胞で出来たゾロの肌よりも余程滑らかな天空をなぞる。
ゾロに星座のことなんかわからない。
夜空に星など求めたのはずっと昔のことだし、星座なんか知らない。
だけどゾロに視線を移したサンジが澄んだ丸い瞳を輝かせているのは、明るくていい。
先程ゾロが声を掛けた時のサンジは、世の中の一から十まで何もかも気に入らなくて、
苛ついて怒ってでも吐け口が無くて仕方なく拗ねて賢ぶってるようだった。
ぐちゃぐちゃの感情を押し殺して我慢している風の造形に、抑える必要の無くなった明け透けな怒りを浮かべてた癖に、
こんな単純に訳もなく嬉しそうにも出来るのか。
指差す方を見ずにサンジの顔をじっと見つめているゾロに気づいて、サンジは恥ずかしいのか戸惑ったように俯いた。
しかし暫くすると意を決したように顔を上げる。
「ね、携帯の番号教えてよ」
羞恥と事後の熱で紅色の退ききらない頬と、遠ざからぬ欲望と星の光を移して潤んだ瞳で、ふわりと破顔する。
輝きに目を奪われた。
これを見たら身体から独立したなにかが生まれて、
ねっとりとした血の匂いも硬く柔く生々しい肉の感触も総て無きものとしてしまえそうだ。
男に抱かれることで、蒸し暑さと激しさと痛み紛いの快感で肌の上を塗り潰すよりもずっといい。
これがいい。
手放したくない。
ゾロにとってどうでもよくないことが出来た。
その日から、星の光と鼠の瞳の光の差異さえ、ゾロがどうでもいいと思うことは無かった。





今夜も人気の無い場所で、ゾロはゾロの仕事をする。
何もかもどうでもよかったのに、そうで無くなってしまってからはどうしてか(それとも必然か)剣先が鈍る。
いつも一瞬の躊躇いが生まれる。
染み着いた匂いと同様、染み着いた習慣(というよりも寧ろ惰性)でゾロは仕事をこなす。
(電話かかってこねえかな)
電話を待つだけならば、嘘をつく前としていることは同じだ。
ゾロは自分から電話をかけない。
メールもしない。
サンジが、切羽詰まった声で、でもゾロの様子を伺いながら卑屈な位控えめに下手に出て、
会えねえかなあと思い定めて囁くのを待っている。
(声が聞けないけどメールでもいい。会ってくれって言ってこねえかな)
大人しく悠然と構えて待っていられたのは絶対に連絡してくるという確信があったからだ。
そして、かかってこなくても平気だと、
あんなどこにでもいる青年などどうでもいいと言えるだろうという自分への信頼があったからだ。
今は無い。
サンジが電話を寄越すことは、けして無い。
また彼が自分にとってどうでもいいだなんて、とても言えない。
(会いてえな)
しかしサンジに別れを告げたのは自分だ。
呆れる程幼稚な身勝手さを持て余しているとわかっている、でも期待することを止められない。
息が苦しい。
何もかもかなぐり捨てて、ただ会いたいと、彼の携帯に電話して叫んでしまいたい。
サンジと待ち合わせがしたい。
約束がしたい。
何時にどこでと決めて、きっと自分は遅刻するけどサンジはいつまででも待っていて、
ゾロを見つけるとゾロの視界が真っ白になる程の眩しい笑顔になる。
(会いてえよ、サンジ)
でもそれは自分自身の手で棄てた希望。





午前4時。
血まみれになった首筋と血まみれになった手を流していると、携帯が着信を告げた。
シャワーを止め、携帯を開く。
『着信 サンジ』







1月9日の日記より。