Beautiful morning with you
好きな人がいた。
その人のことが、とてもとても好きだった。
なんでもしてあげたかったし、いつでも傍にいたかった。
はじめ彼女はそんな気持ちをにっこり笑って受け入れてくれた。
彼女が笑うと全身に電流が流れるみたいで、幸せで、彼女と自分は絶対に結ばれる運命なのだと思った。
けど、彼女は段々冷たくなっていった。
悪いところがあるなら直すから教えて、と泣きついたら、気持ち悪いから寄らないで、と言われた。
メールも電話もつながらなくなった。
こちらに気付くと迷惑そうにするから、遠くからこっそり見守るだけにした。
そのうち親が大学の事務室に呼び出されて、息子さんがストーカー行為を行っている、心身が疲れているのでしょう、
しばらくお休みしなさい、と実家に強制送還された。
母親は泣いた。
父親はこちらを見ない。
大学入学と同時に離れていた自室は物置状態で、居心地が悪い。
あてもなく地元をうろつくと、ときたま知り合いに会った。
地元のネットワークは恐ろしくて、醜聞は瞬く間に広まっており、会う人みんなが気の毒そうな顔で目を合わせなかった。
自分は本当に頭かおかしくて気味が悪い人間なんだと思って涙が出た。
このごろは何かと言うとすぐ涙が出て困る。
その日は小学校の同級生たちに呼び出されて飲んでいた。
自宅に電話がかかってきて、久しぶりに集まってみないかと誘われたときは嬉しかったけど、その気持ちはあっという間に萎
んだ。
彼らは執拗にサンジが大学で何をしたのかを聞きたがり、サンジがぼそぼそと答えると、
お前そんなことしたらきもちわりーだろ、頭おかしいぜ、と水を得た魚のように囃し立てた。
異聞が異常者だと指摘されるたび、恐ろしくてビクビクした。
自分が存在してはいけないもののような気がした。
サンジが黙り込んでしまうと、一同はつまらなそうに舌打ちし、そのあとはずっとサンジにはわからない話をしていた。
みんなサンジのことを嗤っていた。
帰りたくてたまらなかったけれども中座することもできず、サンジが下を向いて堪えているうちに一次会がお開きになった。
飲み屋の前で彼らと別れた途端、急に嘔吐感がこみ上げてきて、たまらずサンジは近くの植え込みに吐いた。
自分は少なくともあいつらには何もしていない。
自分は彼女のことが好きだっただけなのに、なんでこんなふうに言われなければならない?
現実の手触りがよくわからなくて鼻の奥がつんと痛んだ。
その場にしゃがみこむと、地面の冷たさがジーンズからじわじわと染み込んできた。
「あのー、大丈夫ですか」
さっきの飲み屋の店員が声をかけてきて、サンジはのろのろと顔を上げた。
「そこに座り込まれると迷惑なんですけど」
迷惑。
やはり自分は社会の迷惑者なのだ。
帰ろう、そしてもう二度と誰にも会わないようにしよう―――彼女以外には。
立ち上がろうとすると、一瞬早く店員に腕を掴まれて引き上げられた。
「まだ酔ってるんだろ。店で休んでっていいんで」
掴まれた腕に他人の感触、彼が肩を貸してくれ、自分の意思も力もほとんど使わずに体が運ばれていく。
他人に身を預けるのは不思議な感覚だった。
「店長、お客さん具合悪いみたいなんで奥の座敷で寝かせます」
カウンターの向こうに声をかけ、店員はサンジを座敷のすみっこまでつれていく。
そう広くはない店で、座敷にはもう客は一人もいなかった。
彼は座布団とタオルケットを渡し、それから水も持ってきてくれた。
「吐くときはトイレにしてくれよ、すぐ左だから」
そう言って、店員は仕事に戻っていった。
朦朧とする意識の中で見た彼は、サンジと同い年くらいだろうか、紺色のバンダナとエプロンをしててきぱきと働いていた。
知っている人たちのあの態度と、知らない彼のこの態度。
地元に帰ってきてから、はじめて人にまともに接してもらえた気がして、サンジはわけもなく涙が出た。
「おい、あんた、閉店だぜ」
肩を叩かれて目を覚ます。
自分はどれくらい寝ていたのだろうか。
時計を見ると、終バスがとっくに行ってしまっていた。
サンジの家まではここからバスで45分かかる。
歩いて帰ることを考えて、サンジはうんざりした。
「・・・あんた、帰れんのか」
「あー・・・歩いて帰る」
「さっき飲んでたやつらと同じ第3小の学区だったら、結構あるんじゃねえの」
「・・・・・・」
なんでこの男はそんなことを知っているんだろうか。
それから、なんでこんな心配までしてくれるのだろう、とも思った。
「うち、泊まってくか」
ぽつりと言われて、気がつくと頷いていた。
とにかく誰かと関われることが嬉しかったのかもしれない。
彼が店を片付け終わるまで待ってから一緒に帰った。
店から彼のアパートまでは歩いて5分もかからない距離で、帰るなり彼は座卓をどけて布団を敷いてくれた。
パジャマ代わりのジャージも貸してくれ、もそもそと着替える。
「まあ、寝ろ。今日は災難だったみてえだな」
彼は悪酔いしたことというよりも、今日の飲み会の様子を言っているのだろう。
「あんた俺のこと知ってるのか」
「直接は知らねえ。けど今日来てたやつ、何人か高校が一緒だった」
流石地元といったところか。
では今は親切にしてくれる彼も、内心では気味の悪いストーカーだと思っているのだろうか。
けど、それならなんで部屋に上げたりしたのだろう?
働かない頭で目を閉じると、眠りはすぐにやってきた。
知らないにおいの布団の中でただの事実に気がつく。
それでも彼は優しくしてくれたのだ、と。
起きると知らない場所にいて、ああそういえば昨日は初対面の男の家に泊めてもらったのだったと思い出した。
尿意をもよおし、トイレを借りる。
トイレから出ると、男はベッドの上に起き上がって頭を掻いていた。
「あ・・・トイレ借りました」
「あー、おはよう」
男はのそのそと立ち上がり、大きなあくびをすると、シャワー使えば、と言った。
なんとなく言いなりになってシャワーを浴びる。
少し迷ってから昨日のパンツをそのまま履き、服を着て戻ってくると、布団は既に片付けられて座卓に朝食の準備がされている。
「朝めし、食うだろ」
「あ・・・はい」
自分はこの男を知らない。
この男だって、サンジのことなんて知らなかっただろう。
それでも自分のために食事を用意してくれる。
サンジは頭が混乱してきた。
おとなしく席につき、用意されたものを口にする。
白米と佃煮、そんなシンプルなものが異様に特別なものに感じる。
家では、気まずくて家族と顔をあわせないようにしているから、誰かと向かい合って食事をするなんて久しぶりだった。
自分は頭がおかしいから、同情して親切にしてくれているのだろうか。
そう考えれば腑に落ちるけれど、そう思いたくない自分が確かにいた。
食事を終え、片付ける男の背中を見ながらぼうっとしていると、背中越しに話しかけられた。
「俺これから出るけど、お前どうする?」
「あ、か、帰ります」
「そうか」
去り際にキスをされた。
驚いて声も出なかったが、一宿一飯の義理だと言われたら何も言い返せなかった。
帰り道、彼女とは一度のキスもしなかったことを思い出した。
どうやって帰ってきたのかも、彼の唇の感触も、混乱が過ぎたせいで思い出せないが、また来れば、と言われたことだけは覚えていた。
それから何度か彼の家に遊びに行った。
彼はロロノア・ゾロという名前で、サンジと同い年だった。
何度目かに彼の家を訪ねたとき彼は留守にしていて、帰ってくるまでアパートのドアの前で座り込んで待った。
帰ってきたゾロは驚きながらもサンジをまた部屋に上げてくれた。
どのくらい待ったんだと聞かれたから、サンジは少なめに1時間、と言った。
ほんとはたぶん3時間くらいそこにいたのだけれども、正直に言ったらいけない気がしたのだ。
「ばか、なんでそんなに待つんだよ」
ゾロは怒ったように言って、サンジの耳をぐっとつかんだ。
冷え切ったそこに、ゾロの体温が伝わってくすぐったくてサンジは首をすくめた。
それからゾロは携帯の番号とアドレスを教えてくれた。
いつでもかけていいと言われて、そのときはただ嬉しい気持ちになったのだけれども、いざメールを送ろうという段になったら急に不安が襲ってきた。
サンジは彼女にしょっちゅうメールを送ったし、電話もかけた。
はじめ彼女は普通に返事をしてくれていたけれども、いつの間にか返事が少なくなり、最終的には連絡がとれなくなった。
同じことが、もしかして起こるのだろうか?
サンジが気がつかないうちに、ゾロは自分をうざいとか気持ち悪いとか思うようになるのだろうか?
わからなくて怖くなって、確かめたくてただゾロに会いたくなって、サンジは母親のママチャリを拝借した。
ちょうど日付が変わるくらいの時間だった。
冬の夜空は澄み渡っていて星が瞬く。
それを見上げる暇もなくサンジはペダルを漕いだ。
アパートの脇に自転車を停め、階段を駆け上がると、ゾロの部屋からはちょうど女の子が出てくるところだった。
サンジの足は固まった。
女の子を見送りに玄関に出てきていたゾロがこちらに気付き、いぶかしげな顔をした。
「こんな時間にどうした」
サンジは何も言うことが出来なかった。
そんなサンジを見て、ふわふわのファーのついた温かそうなコートを着たオレンジ色の髪の女の子は、
ゾロの悪食は治らないわねえ、と意味のわからないことを言って、人の悪そうな微笑を浮かべた。
「こんばんは。あなた、サンジ君でしょう」
「あ、はい、そうです」
「私、ナミっていうの。ゾロの幼馴染」
幼馴染と自己紹介することは、ゾロの彼女じゃないってことだろうか。
勝気そうな瞳の、整った顔立ちの女の子だった。
サンジが見とれていると、ゾロと仲良くしてあげてねと言い残して帰ってしまった。
彼女の後姿を見送りながら、ゾロが大きなため息をついたから、サンジはびくりと背筋を振るわせた。
「・・・どうした、はいらねぇのか」
アパートの廊下に足が張り付いてしまったみたいに動かないサンジに、ゾロが声を掛ける。
そうだ、自分はゾロに会いにきたのだった。
ゾロの表情はいつもどおり淡々としていて、優しいようにも何を考えているのかわからないようにも見えた。
「なんかいまで、メールしていい?」
唐突なサンジの問いかけに、ゾロは眉間に皺を寄せた。
それで少し怯んだけれども、勇気を奮い起こしてもう一度尋ねる。
「一日に何回までメールしていい?何回までなら嫌いにならない?」
「はあ?」
サンジは必死だった。
ゾロに嫌われたくない。
ゾロとは、彼女とは違う、ちゃんとした関係を築きたいと思った。
「お前とにかく中に入れ」
ぐい、とゾロに腕を引かれて部屋に入る。
部屋の中は暖房がきいていて温かくて、サンジは自分の体が冷えていることに気がついた。
「こんな時間に何かと思ったら・・・」
ゾロの部屋の座卓はいつの間にか炬燵になっていて、サンジは背中を押されてそこに突っ込まれた。
コートを脱いでいるうちに、ゾロがインスタントコーヒーを入れてくれた。
サンジの分とゾロの分、それからもう一つおきっぱなしになっているマグカップのはナミが使ったものだろうか、
ピンクの口紅の色がうっすらと残っていた。
「あのなあ、お前がどう思ってるのか知らないけど」
ゾロは小さな声で話し始めた。
コーヒーにスティックシュガーを三本入れて、スプーンでぐるぐるかきまぜている。
「俺はお前に下心があるんだぜ。だから何回メールされたってかまわねえ、むしろ嬉しいとおもう」
ゾロはさして特別なことを言っているというふうでもなかった。
だから言われた瞬間はよくわからなかったけれども、その言葉の意味をゆっくり咀嚼してからようやく、
ものすごいことを言われたんじゃないかと気がついて頭が沸騰した。
「意味わかんねえか?」
ゾロの顔が近づいてくる。
まぶたを伏せた彼は意外と睫毛が長くて、綺麗な肌をしていた。
ゾロとの二度目の荒っぽくやわらかいキスの感触はきちんと記憶できたと思う。
彼の体重が自分にかぶさってきて、サンジは彼の背に腕を回した。
そして美しい朝がやってくるまでゾロの呼吸を首筋に感じながら眠った。
けれどもゾロの寝顔を眺めながら、不実なサンジは頭の片隅でマグカップの口紅の跡についてうっすらと考えていたのだった。
2009/12/9