BRASH









明日が来なければいい。
明日が来ないなら、ゾロを想おうと、結婚相手から奪おうと攫おうと、
ゾロに拒否されて殴られ罵倒された処を無理矢理抱き寄せようと、ふたりが抱き合って毛布にくるまっていようと、
何ら問題は無い。
明日何をしようか、明日はどこにいて何を食べて何を着て呼吸をしていようか、
果たして明日も呼吸の仕方を知っているだろうか、
明日もしかして昨日まで知らん顔だった常識的ではた迷惑な人間が目を覚まし自分たちを糾弾するのではないか、
そういった不透明な明日の義務や不安や様々の懼れを亡き者に出来る。
明日が来るなら、日々が連綿と続いていくのなら、食事や排泄といった種々の自分を生かす手続きに苛まされるのみならず、
いつかは立ち上がり記憶の屍を背に先へ進む運命を背負わねばならない。
その当たり前の予告が金縛りのようにサンジを何も出来ない男にする。
しかし押し止めきれなくなった流れが動き出した今ではもう、
望みを絶たれた自らが死んでいくのを何も出来ない男のままで安穏と見てもいられなくなった。
誰の、何の指示に従うわけでもないのに、川を下っていく船のように体は勝手に動き出す。
明日が来なければいい。
己の何もかもを暴き、ゾロを腕に抱いて、世界の終わりを見届ける。





コール音が途切れてたっぷり10秒、死ぬ程焦がれたゾロの声。
焦がれすぎて死ねなかった。
ゾロの存在は絶望であり、生きてゆくための希望だ。
明日もしかしたら会えるかもしれないのに今死んだら勿体無い、という後ろ向きな生への執着、
即ち限り無く零に近い可能性をきっぱりと零にすることへの恐怖を呼び起こす。
「・・・サンジ?」
掠れた声は、寝起きのせいなのだろう。
そう考えたら、彼の携帯のディスプレイにはサンジの名が表示されたろうにゾロが通話ボタンを押したのも頷ける。
普通の、冷静な状態だったら、自分から別れを告げた恋人とも言えない男の電話に出る筋合いなど無い。
自分は何を言おうとこの電話をかけたのだろうか、ただの衝動か。
心が弾け飛ぶ勢いに乗ったままで進むだけなのか。
それならいい、もうどんな理性の手にも絡めとり押し止めることの出来ないただの単純な想いが行くに任せる。
後のことなど知らない。
「ゾロ、あのさ」
思うよりも落ち着いた声が出る。
そのせいで気持ちが腹の底で一つに溶け合って、本当に落ち着ける気がした。
「ほんとに結婚するの?もうしたの?」
返事は無い。
繋がった電話の先に相手がいるのかわからないくらい、無音だ。
「まだしてないなら、しないで欲しい。結婚しないで。おれの知らない女と結婚なんかするな」
午前4時。
新しい日が始まったばかりの時間だ。
明日はまだ遠く、今日の朝がやっと見え始めたところだ。
今日が自分の、ゾロの、世界の、最後の日であればいい。
「聞いてる?ゾロ。会いたい」
ゾロの返事は無い。
端的な一言でいい、肯定でも否定でも煮え切らない自分を後押しする。
けれど返答を渇望する一方で、
ただ自分が行き場の無い想いを身勝手に吐露したいだけだったのだから無くても構わないとも思う。
「会いたい。ゾロ、なあ、困らせてごめん、でも会えねえかなあ?」
甘えの擬態で自分さえ騙して、みっともない、必死の懇願をする。
もう結婚してるかもしれないのに。
奥さんとお伽話のめでたしめでたし、の瞬間ように幸せになっているかもしれないのに。
サンジを忘れているかもしれないのに。
思い出したくもないかもしれないのに。
年があまりに違う、男同士なのに。
あまりにも遅すぎる悪あがきをする。
けれどもそれは二人がまだ生を享受しているというただの一点においてまだ遅くないと言える。
「1時間でいいから。顔見せてくれるだけでもいいよ、ちょっとでいいからさ、会いたいんだ。
しつこくてごめん、でも、だめかな?」
何一つ確信の無いまま訴える。
馬鹿みたいに繰り返し問い掛けた。
答えを待つ瞬間のサンジは、ぐちゃぐちゃに自分を絡めとろうとしていた何もかもから解放されて自由で、
しかし茨の蔓に心臓を縛られている。
だめだ、でも、いいよ、でも、ふたりをどこにも連れて行かない気がした。
ならばサンジは自分で行きたい場所に行かねばならない。
行きたい場所なんかひとつしかない。





「・・・初めて寝たホテルのある駅の」
ゾロの低い、ともすると意味を捕らえられないような不明瞭な音声が鼓膜を打つ。
「東口。中央通りに出て暫く行ったところの、角の不動産屋を右に行った先のマンションの、6階の一番奥の部屋」
何を意味するのかわからなくて頭は沸騰している。
しかし冷静沈着な目は時計の文字盤を確かめる。
もうすぐ、始発が動く。
「ろっかい、」
「6階」
聞き取りにくいゾロの声は、ともすれば震えているように思える。
サンジ自身も、唇が戦慄いてろくに息も出来ない。
「今すぐ来い」
財布と携帯とコート、それだけ掴んでサンジは駆け出した。
意味など、何についてもひと欠片も考えない。
今までが考えすぎたのだ。
ただ、いくつかの願いをする。
明日が来なければいい。





幸いにも動き出したばかりの始発電車に滑り込むことが出来た。
今のサンジにはじっと電車を待っていることなど出来なかっただろうからありがたい。
ほぼ無人の電車の中でもゆったりと腰を落ち着けていることなど出来ない。
ともすれば引き返そうか、別の場所へ行ってしまおうかと怖気つく自分がいる。
愚かなことだ。
この期に及んで一体どんな逃げ道があるというのか。
胸が、心が、意識の全てが、彼に向かい彼を求め、彼に対して投げ出されているというのに。





少しも迷うことなく、まるで吸い寄せられるようにそこへ辿り着いた。
6階、一番奥の部屋。
インターホンを目線で捜す一瞬ですら惜しく、勢いのまま拳がドアを一度だけ叩いた。
寸部の余裕も無い、サンジの心そのままの乱暴さだった。
あのおだやかでもの哀しく美しかった、夕暮れ時の喫茶店の記憶を、
それからはじまった胸元を掻き毟り続けた日々を、払拭し、忘れ、打ち消し、打ち壊し、打ち負かしたかった。
早く、早くしてくれ。
全身が焦げ付くように熱くてくらくらする、ドアが開くまでの時間が、気が遠くなる程長い。
もう待たせないで欲しい、これ以上のお預けには我慢がきかない。
鍵が外れる音がする。
開いた瞬間、ゾロだけになる。
世界から、頭から、心から、不安も煩悶も苦悩も期待も何もかもが消え去ってゆく。
明日が来なければいい。
噛み締めるように、数ヶ月ぶりの年上の男の肉体を、きつくきつく抱いた。
耳鳴りがして煩かった。
ゾロの膝が崩れて、サンジの上に倒れ込んでくる。
首筋から、石鹸のにおいに混じって、彼のにおいと血のにおいがした。





次に目を覚ますと、あれだけ疎んでいた明日が、既に彼らを侵食していた。
ベッドの下には物騒にも日本刀が3本転がっている。
サンジがそちらに目をやるのを見、ゾロは一言、もうやめる、と言った。
深く追求しようとはおもわないし、またそうする意味も無い。
時間はまだ明け方で、散々身体をつなげてみたものの、真にひとつになる方法などこの世の中に存在しない。
どちらもいずれは死んでしまうし、その瞬間を同時に迎える可能性など僅かで、
だからといって自らの手で終わらせるには惜し過ぎる。
これからはじまっていく時間の中で、どうしたらいいのかサンジにもゾロにもわからない。
そのときから途方に暮れて、ふたりは永遠の時間のなかで、今もずっと抱き合い続けている。







4月24日の日記より。どうかしあわせになってくれと願いをこめて。