BREAK









灰色の堤防は脆くも決壊した。
勢い良く水が流れ出す。
サンジにはそれをどうすることも出来ない。
呆気なく壊れた堤防の壁から、
冷静な呼び声を掻き消す轟音を伴って自分のどうしようもない感情が飛沫を上げて溢れ出していくのを、
ぼんやりと見つめることしか出来ない。
だがしかし誰がそれを咎めるだろう?
どこにでもいるような一人の青年が、勝手に恋をして胸を焦がし、勝手に想いを暴走させ、
勝手に大多数のノーマルが幅を利かせる社会から逸脱しようと、世の中になんら影響を与えない。
周囲の人間を煩わせることもあろうが、そんなのはいつの世にもあること(生理的早産状態で子宮より生まれ落ちたのち、
他人を一度も煩わせない人間など存在しない)で、お互い様だ。
何の問題も無いではないか、ただ勝手に彼を好きなくらいのことは。
サンジは居直って、もう堤防を修復しようとしなかった。
実のない作業と自分の心さえ満足に制御できない自分に嫌気が差していた。
溢れ出した水が何処までも、行く処まで行けばいい。
流れ行く先が彼の元であればいい。





思えばふたりの間には、傍にいる時も離れている時も厄介な問題が乱積していて、
抱き合って互いの姿しか見えない時ですらそれらに苛まされていつだって歯を食いしばっていなければならなかった。
背中から、爪先から、首の裏からじわじわと襲い来る不安や恐怖や後ろ暗さや絶望は、どうしたって辛くて苦しい。
一人でいるときも、ふたりでいるときも同じように苦しい。
ただ抱き合っているときは彼に夢中で見えない振りが出来ただけだ。
甘やかな時間に終わりが来ることくらい知っていた。
知っていながら愚鈍を装って目を瞑って、口には出せない稚拙な、恥ずかしい願いがかなえられることを漠然と、
しかし奥底に秘めた必死さで祈っていた。
その事実もまた力任せにねじ伏せて隠していた。
ゾロと過ごす中で自分はそうでしかいられなかったのだから、もしもこの想いを全て忘れられるのならその方がいいと、
良識的な人間なら誰だって明らかにわかる。
けれどもそれも出来ない。
もう3ヶ月経った。
目を閉じれば瞼にその姿がちらつき、ひやりとした空気に触れれば彼の肌を思い出し、
時に雑踏で名前を呼ばれる幻聴さえ聞こえる。
振り返っては別の自分が或いは嘲笑い、或いは憐れむ。
バカじゃねえの、もうゾロはお前のことなんか忘れてるよ。
可哀想に、まだこんなに好きで、世界で一番不幸な男だ。
どれも自分で、自分の本心で、だから幾人もの自分に一番柔な自分が踏み荒らされているようだ。
たった一人の人間の肉体の中にこんなに多くの思考がいて、それらが言い争い傷つけあって肉体に命令を与えない。
今のサンジはただだらりと床に座っているだけに見えることだろう。
堤防が決壊した今、頭の中では堤防を作る者やそれを取り払おうとする者、傍観する者が皆、
泥だらけになった体を怒涛の流れに洗われてただ立ちすくんでいる。





近ごろは街中で彼の年頃の男性を見かけるだけで、その度に彼とのあまりの落差に愕然とした。
或いはスーツに身を包み、或いはランニング中のジャージ姿であっても、
昼間活動して夜は眠る者の肌の色と、
太陽の光の下で多くの生き物に、物体に、思想に、システムにもみくちゃにされてくたびれきった身体を持っている。
普通、即ちゾロ以外のその他大勢の彼らはサンジのような普通の、どこにでもいるようなただの青年に興味など抱かず、
妻がいて子供がいて家庭を持ち、毎朝出勤して夜は家で夕飯を食べ、
倦怠期に襲われている夫婦はセックスもせず床に着くのだろう。
彼はどうであったか、抗いきれない年波にそれでも屈さず、
一見穏やかな目の色になにもかもを覆い隠してその下であまりに酷薄な存在の自由を謳歌していたではないか。
彼はそういう人間だったのだ。
間違っても今更普通の人間に戻ることなどできない、どうしようもない、
同じ世界にいながらどこか別の地平に立っている人間であった。
だから当たり前と思う人間たちにとって当たり前の世界を当たり前としか思わず生きてきたサンジとは、
離れゆく運命にあったとしか言いようが無い。
それまでの時間の共有ですら、なぜ起こり得たのか説明し得ないものだ。
結婚するからもう会えないと言われて、諦められるとおもった。
なぜなら冷静に考えて諦める以外にサンジには出来ることがない。
その外に、遠い未来まで生きていくように遺伝子に組み込まれて創られてしまっている自分を生かす方法を知らない。
諦めたかった。
彼の為に、自分の為に、諦めてしまいたかった。
けれど諦めようとすればするほど頭の中でゾロが膨む。
目を逸らせば視界の端でちらつき、姿を遠ざけようとすれば輪郭が鮮明さを増し、
こんな感情は異常なのだ、あんな年上の男など欲しくないと言い聞かせれば有り余る欲望で全身が焼け付く。
そうしてサンジの努力も虚しく、遂には不毛な日々を費やして築いた堤防を破ってしまった。
動悸と共に込み上げるのは、この瞬間を待っていたのだという薄情な微笑。





堤防はゾロの存在やそれにまつわる記憶及び感情の周囲をぐるりと取り囲んで造り上げたものだ。
厚く厚く、ちょっとやそっとじゃ壊れないように頑丈に塗り固める作業をここ最近は来る日も来る日も続けた。
やがてそれが何の為の堤防だったのかわからなくなるくらいになれば、作業をやめてその場を離れても、
洪水など起こらず大人しくしていてくれるだろうと、毎日泥だらけになって黙々と手を動かした。
彼のことを考えてしまうだけで、
その肌の熱の匂いや湿り具合やどんな声でどんな顔でどんな仕草でサンジを虜にしたのか、
力を込めすぎたせいで指の関節が太くなった手や足を縮めて丸くなって寝る癖、項の短い緑の毛に混ざる白いもの、
下の毛は薄いのに睫はどうしてか細く長く伸びていること、
くっきりと畳まれた二重の線が寝起きは五重くらいになること、
そんなほんの些細なことが一瞬頭をよぎっただけでさえ、水は勢いを増し堤防を壊して吹き出さんとする。
思い出と言える日は遠かった。
どうしても彼の生々しい、捨て置けない息遣いが肌から消えなかった。
それでも甲斐の無い空虚な日々を続けていられたのはある種非常に人間的な(或いは超人的な)理性があったからだ。
今ここで一人未来の無さに喘いでいるのは、割り切れないまま抱き合って未来の無さにおののいても同じだと、
臆病な自分につく希望の溜め息を捻り潰す。
溜め息ごと堤防の灰色に固める。
元々出口の無い筈の想いだった。
在るべき形にかえすだけだ。
原動力はゾロがもう別れると言った、あの日が悪夢や不安の見せた幻覚などではなく、間違いなく存在したという事実だ。
けれども哀しいかな、サンジの無意識はゾロが達するときに自分の名前を呼んだあの瞬間を、
セックスの後不機嫌なのかと窺うサンジの腕枕で無表情のまま寝ついたことを、
あの日あの駅で、ほんの一時見かけたゾロがさして幸福そうな表情でなかったことに想いを馳せた。
そしてあの喫茶店で、彼が最後に、どうか幸せにと言ったことを思い出してしまった。
幸せ?
一体どんなつもりだ。
普通の人間にとって普通の、例えば結婚して子供がいて大通りを大手を振って歩けるような幸せな人生は、
彼のいる熱っぽく耳鳴りのするような人生よりも無味乾燥なものだ。
幸せになどなりたくない。
辛かろうと苦しかろうと、彼によって彩られた癖の強い味付けの生の中で地面を引っ掻きもがいていたい。
彼がただ、ただそこにいてくれさえすれば。





堤防は決壊した。
ゾロがいない幸せなんて、この世界に見当たらない。
傲慢でいい。
我が儘でいい。
代償ならこの身を捨てても全部払うし、責任もとる、悪いのは全部自分でいい。
拒否されたって構わない。
結婚して奥さんのことを愛していようと、もうサンジに無関心でもなんでもいい。
ゾロが欲しい。
携帯をつかむ。
深夜4時。
アドレス帳のゾロのナンバーを呼び出す。
いつもと同じコール音。
機械音はサンジの冷静さを呼び覚ます。
出ないでくれ。
もう一度絶望出来たら、きっと違う行き先へ進む力になる。
けれど小賢しく願う理性でさえ噴き出した感情の勢いにおもねる。
ゾロ。





ぷつり、コール音が途切れる。
たっぷり10秒、わずかに息遣いが聞こえる。
「・・・サンジ?」
堤防はもう跡形もない。
全てを飲み込む水が流れる。







若さがあるので。