苦悶の日々はまだまだ続く
「お前もうメイド辞めろ」
ゾロは言った。
おれの誕生日に新しいメイドの制服を与えてそう幾日も経っていなかった。
ゾロのメイドになったばかりの頃、おれはひらひらのメイド服を着るのが嫌だった。
ただでさえひょろひょろの情けない体をしているのに、
こんなワンピースを着てしまったら性別の区別すらおぼつかなくなってしまうからだ。
男らしい屈強な体躯の、けれどとても美しい顔をしたゾロに憧れと嫉妬と、強い劣等感を抱いた。
この姿を晒していることが恥ずかしく居たたまれなかった。
加えておれは彼を単に年上の同性としての彼を意識していただけではなかった。
おれの中の雄は彼を恋愛対象として認め求めていた。
それは傍にいて、見つめるでもなくそっと彼の姿を覗くだけで充分満たされる気持ちだった。
この服を着ることを誇らしく思わなかったあの頃は。
そのうちメイド服を着ることに慣れ、それが当たり前になると、
今度はメイド服を脱ぐことに抵抗を覚えるようになった。
ゾロへのささやかな思慕は輪郭を持たないまま日に日に膨らんで、
その気持ちに名前をつけられるくらいの量と質とを持っていた。
おれの腕は彼を抱きしめるのにはあまりに短すぎて、しがみつくことしかできないだろう、
どうしたらずっと彼の傍にいられる地位につけるだろうか、と焦れていた。
だけどこの服を着ている間は、少なくとも絶対に、ゾロのメイドでいられるから。
ただ従順に、彼の傍にいられるから。
この服を脱いでしまいたくなかった。
ずっとこのまま彼のメイドでいたかった。
一度だけ、眠っている彼のくちびるに触れたことがある。
ある日曜日の曇り空の昼下がり、洗濯物をしまいに彼の部屋に入ったとき、
あんまりにも無防備な表情で眠っていたから、
メイド服に押し込められたおれの中の雄が堪えきれずに溢れ出た。
そっと、くちびるとくちびるを重ねた。
彼には欠片もやわらかなイメージなんかなかったのに、そこはとてもやわらかで、あたたかくて、
触れるだけでは飽き足らず、いつの間にか嘗め上げたり吸い付いたりしていた。
気がつけば彼のくちびるは真っ赤に染まって腫れ上がり、とても扇情的な形をしていた。
自分のしたことの罪深さに恥じ入った。
あわてて部屋を飛び出しかけたとき、寝惚けた声が聞こえた。
「・・・エース?」
知らない男の名前だった。
指先がすう、と固くなり、心臓が冷たくなった。
スカートの裾をきつく握った。
くらくら痺れる頭の芯をそのままに、静かにドアを閉めた。
メイド服を脱ぎ捨てて着替えると、ふらりと外に出て、日が暮れるまで帰らなかった。
いつもなら書置きをして行くのに、それもせずにいなくなったおれを、ゾロが咎めることはなかった。
おれが帰ったときすでにゾロは起きてテレビを眺めていた。
何も知らない声で、おれにおかえり、と言った。
夕飯まだか、とも言った。
メイドとしての仕事を忘れてはいない。
急いで夕食の支度をしながらも、横目でちらちらとゾロの様子を伺っていた。
あのとき触れた唇の感触と、彼が呼んだ男の名前を、切り離せることなく、
甘く切なく何度もくりかえし思い出しながら。
それからしばらく経った雨の日、おれは傘を忘れたゾロを駅まで迎えにいった。
昼間働いているレストランに出勤するときや買い物に出かけるときには流石にメイド服を脱ぐものの、
ゾロの前で普通の格好をすること少ないからなんだか気恥ずかしかった。
駅前に緑色の頭を見つけたとき、一緒に一人の男が立っていた。
向こうはおれが近づいていることに気付かずに、一見普通の友達同士のように仲良く話していた。
けれど二人の距離はただの友達同士というのには近すぎた。
二人を囲む空気はどこか妖しい雰囲気を醸し出していて、おれは嫌な予感に身震いした。
決定打があった。
男の唇が、吸い寄せられるように、ゾロのくちびるに触れた。
一瞬にも満たない時間だっただろうが、確かに触れた。
ゾロは公衆の面前で男にキスされたのにちらりとまわりを見渡しただけで、
さして焦る様子もなく、ただくすぐったそうに笑った。
おれには見せたことの無い、甘えた笑顔。
頭に血が上った。
「ゾロ」
おれが出来る限りの理性を振り絞った声で呼ぶと、
ゾロは明らかに慌てて近づきすぎた体を離した。
「あ・・・悪ィなわざわざ」
「いいって。そちらは?」
黒髪の、そばかすの男に目をやると、男はひとなつっこい笑顔をおれに向けた。
ついさっきゾロの唇を奪ったとは思えない程の健康な表情だ。
「ゾロの高校からの知り合いのエースだ。ゾロの所で働いてるサンジくん・・・だろ?よろしくな」
礼儀正しく深々と頭を下げられて、失礼にならないよう同じように返した。
「はじめまして」
その名前を思い出すのはあのとき触れたくちびるの感触と共に。
いとも簡単につながった。
わかってしまった。
でもそれならば、おれにも望みはあると、そういうことじゃないのだろうか。
それからも何度か、ゾロと他の男が明らかに友人以上の親しさをもって接している姿を見た。
無防備に放り出してある携帯の着信やメールは全て男の名前だったし、
えらく派手な車がマンションの前に止まり、
出てきた男が助手席のドアを開けたと思ったらゾロが降りてきた、なんてこともあった。
おれの知らないところでゾロが何をしているのか知る由もないけれど、
僅かに垣間見えた部分だけを繋げて察するに、あながちおれは間違っていないのかもしれない。
ゾロには全くと言っていいほど女っ気がないし、女には関心すらないようだ。
ゾロが男にしか興味がないと言い切るのには勇気がいるが、真実には近いだろう。
だけどおれはゾロのメイドでしかないから。
ゾロが男にしか興味がなかろうと、おれは男ですらない、メイドという存在だから。
期待する心を戒めるように再びメイド服の中に無理矢理封じこめ、
メイドとして彼の傍にいる以上のことを望まないように気持ちを抑えたまま、
ゆるやかに日々は過ぎ、おれは19歳になった。
運命に少しだけ触れることができる日。
0時ぎりぎりにおれの部屋にやってきたゾロは、青い包みをおれに渡した。
新しいメイドの制服だ、とゾロは言って、不思議ないろの目を見せた。
新しいメイド服、と贈られたスーツにおれが袖を通した日から、
ゾロの帰りが遅くなったように思える。
着慣れない新しいスーツからは未だ自分に馴染みきらないよそよそしさを感じた。
孤独、というといささか大袈裟かもしれないが、
広いマンションに独り放り出されたみたいに自分という物体を小さく感じた。
これまではゾロは遅くなるなら生真面目にも必ず、おれの携帯にメールを入れていた。
口には出せないけれど心の中でからかいたくなるほど、律儀に。
それなのに連絡ひとつ寄越さず、
ゾロが食べなかった夕食をおれが朝食にすることがあるようになった。
今日も連絡なしにゾロの帰りが遅い。
夫の帰りを焦れったく待つ新妻さながら、おれは食卓に頬杖をついてゾロの帰りを待っている。
レストランで働くようになってから覚えた煙草はゾロが嫌っているから、ベランダで吸うことにしていた。
一本銜えてベランダに出ようと窓のロックに手をかける。
と、玄関が弱々しく開かれる音がした。
酒は飲んでも飲まれるなの実践のようなゾロが、珍しく酔っていた。
「大丈夫か?」
「・・・・・・あぁ」
ふらふらと部屋に上がったゾロは食卓の椅子に腰掛けると突っ伏して、酒臭い溜息を吐いた。
くっきりとした彼の二重の線がいつもよりも少し上方に描かれているように思える。
何かをじっと考えているようだ。
おれの顔をまじまじと見つめて、なに、と問えば視線をそらし、
ひんやりとした食卓に熱っぽい頬をぺたりと押し付けている。
瞳は酔いで水っぽく、今にもとろけて流れ出してしまいそうだ。
コップに水を汲んできてやると、一気に飲み干した。
瞬きを繰り返すゾロを、おれはじっと見つめていた。
何か重大なことを告げられる。
そんな予感があった。
冷蔵庫の鳴らす機械音と、遠くで車の走る音だけが聞こえた。
今は独りですらないのに、部屋がとてつもなく広かった。
自分という物体が独りだったときよりもますます小さかった。
藍色の孤独と、恐怖がおれの肩に手をかけている。
少しの間のあと、ゾロは据わった目で告げた。
「お前もうメイドやめろ」
ゾロらしくない、小さな声で、でも酔いを感じさせないはっきりとして冷静な声だった。
「・・・え?」
「お前ももう19だ。ちゃんと自分で働いて稼いでるし、もうここにいる必要はないだろう」
ゾロは食卓にひっくり返しに置かれているからっぽの茶碗とお椀を凝視している。
おれのほうを見はしない。
おれはといえば、唐突な言葉に動揺を隠せない。
「・・・いやだ」
そんなのはいやだ。
ゾロの傍を離れるなんて。
「どうして?おれはもう必要ない?」
「働きながらおれの世話するのもいい加減大変だろ」
「それならおれ、レストラン辞めるよ」
「なんでだ!」
かっとなって怒鳴ったゾロの目は、脆弱なものだった。
なんでだと問われても理由なんか説明できるわけがない。
迷って立ち尽くすおれにゾロは続けた。
「お前はちゃんと働いてて、収入もあって、自分で立ってて、
もうこれ以上無理してメイドなんかしてないで仕事に専念していいんだ」
吐き捨てるような早口で言った。
「いやだ!」
おれはそう主張することしかできない。
言わなければゾロから離れることになってしまう。
ゾロが決めてしまったら、おれはそれに従うしかない。
おれは叫んだ。
「いやだ、何でそんなこと言うんだ!」
おれの確固とした意思を感じとったのだろう、ゾロは諦めたような、すがるような、
今にも泣き出しそうな顔になってしまった。
泣きたいのはおれのほうだ。
どうしていまさら。
レストランで働くなんて余計なことはしなくていい。
おれはもう、『ゾロのメイド』以外の何物にもなりたくはないというのに。
あなたのそばにいたいと、こんなにも願っているのに。
息を吐き出し椅子の背もたれに深く体を預けて俯いて、途方に暮れたようにゾロは呟いた。
「おれが男しか好きじゃないこと、気がついてるんだろ・・・?」
ぎくりとして、小さく頷いた。
おれが頷いたのを確認すると、ゾロはうっすら目を細めて息をついた。
それを今、急に、何故。
あのひらひらのメイド服の中に押し込めていた気持ちは、防波堤を失くした今、いとも容易く噴出しうる。
気付かない振りをしていた期待を思い出していいというのか。
これから彼は、何を。
格好良くなったよ、お前。
なりすぎたくらいにな。
・・・・・・お前に、触りたくて、触られたくて、たまんねぇんだ。
だけどそんなこと、できるはずねぇだろ?
言えるはず、ねぇだろ?
お前に、好きだ、なんて・・・・・・・・・
ひとつひとつ自分に言い聞かせ、確かめるように言葉にしていった、
これは多分、ゾロにとって一番の弱み。
それを晒すときなら、彼ですらこんな顔をするのか。
自嘲の歪んだ笑顔をこぼしたあとに、下唇をかんで、彼の長い下睫毛に、涙が溜まって。
抱きしめたい。
だってその言葉の意味はあなたが
息が止まるくらいの速さで
きつくきつくきつく
新しいスーツの匂いが自分から薫るのを、ゾロとのキスの最中に感じた。
この新しいメイド服はたぶん、ゾロにとって、おれにとって、
おれが男になった証なんだろう。
続きであって続きに非ず。
サンジもゾロも「そうして〜」とキャラ変わってます。あーあ。
1000hitで吉野さんに。
出来かけてるので今こそリクエストしてください!と偉そうに言ってからどのくらいたったんでしょう。