よいひろいもの









サンジがはじめてゾロを見たのは、おだやかな平日の昼下がりだった。
日課にしている水やりをしようと庭に出る。
夏に片足をひっかけたこの季節、やわらかな色をしていた芝生は青々とたくましい色になりはじめ、
緑と土のにおいが強く感じられるようになっていた。
そろそろ遅い時間に庭に出るようにしないと、強い日差しが体や目にこたえるかもしれない。
水道のほうへ向かおうとすると、門が開け放してあるのが目についた。
どうしたことかとおもうと、門を入ってすぐわきの金柑の陰に、ひとりの青年がすわりこんでいるのが見える。
うなだれた頭は奇妙な緑色で、苦しそうに肩で大きく息をするたび、左耳にぶらさがったピアスがぶつかりあっていた。
これはいけない、ととっさにサンジはそう思った。
あわてて駆けよると、青年は少し顔をあげてサンジを見た。
ぎらりと光る、傷ついた獣の目だった。
本能と経験が危険を察知して、警鐘を鳴らした。
しかしこんなまなざしを見るのはひさしぶりだというなつかしさ、そして好奇心がこみあげたのも確かだった。
「大丈夫だよ」
サンジはつとめておだやかに言った。
そうすることはサンジにとってそう難しいことではなかった。
なぜなら彼の何倍という時間を生きてきたという自負がサンジにはある。
それに年老いたといっても、自慢の足は健在だ。
この手負いの獣にどうこうされるほど弱ってはいないつもりだ。
「すこし休んでいくといい」
サンジが家の中を指さすと、青年はうたぐる様子すらみせずにちいさくうなずいた。
さきほどの目からは想像できないほどの素直さが意外で、おや、とおもった瞬間、
青年の体はずるりと横にくずれた。
その拍子に、胸から腹にかけて、彼の白いシャツが真っ赤に染まっているのが見えた。
そして血のにおいがあたりにひろがっていることに気がついた。
どうしてそれに気づかなかったのか、ここまでにぶくなってしまったのかと、自分にがっかりしたけれども、
とりあえずまずサンジは青年を家の中に運びこんで手当てをしてやることが先だった。





青年のシャツを脱がせてみると、左胸から腹にかけて大きな傷がななめに入っていた。
縫われてはいるものの、再び傷口が開きだしたようで、大量の血が流れていた。
丁寧に血をぬぐい、塩水で洗って、新しい包帯を巻いてやる。
その間、眠っている青年はすこしも苦しそうにはせず、むしろやすらかに見えるほどの寝顔だった。
ちかごろの若者はわからないなあ、と年寄りらしい感想を口に出してみる。
が、この青年だけが異質なのだとサンジにはわかっていた。
それから青年を自分の布団に寝かせたまま買い物に出かけた。
これだけ血を流したのだから、きちんと食べるべきものを食べさせなければならない。
自分の、それも最低限の分しか入っていない冷蔵庫はさみしいくらいにすかすかだ。
けれどもあれだけ若くて丈夫そうな体をしていれば、ちゃんと食べさせて休ませれば数日で回復するだろう。
彼の体はとてもたくましく、包帯を巻いてやるために持ち上げるのですら老体には骨が折れた。
その分、きっと久々に料理のしがいがあるのだろうと、年甲斐も無く心がはずんだ。
一線を退いたとはいえ、心はいまだに現役コックなのだ。
楽しくないはずがない。





目をさました青年は、実によく食べた。
八畳間に敷いてやった布団で丸一日眠って、目を覚ましてサンジを見たとき、彼はまず
「トイレどこ?」
と聞いた。
はじめに見た警戒心たっぷりの獣の目ではなく、ずっと前からサンジと親しい仲であったような表情をしていた。
まるでひさしぶりに訪れたサンジの孫かななにかのような、そんな当たり前そうな顔だった。
トイレから帰ってきた彼に、食べるだろう?と食事を出してやると、
青年は茶卓の前であぐらをかいて、ちらりとサンジを確認してからいただきます、と言った。
お世辞にも行儀がいいとは言えなかったが、こちらが気持ちよくなるくらいよく食べて、
棚の奥からひっぱりだしてきた大なべも皿も炊飯器まですっかり空にしてしまった。
よく食べるものだなあとサンジが感心していると、
青年はそれでもまだ食べれそうな顔をして、目をきょろきょろさせている。
「もうねえの?」
「ああ。よく食べたね」
サンジが言うと、青年は不服そうに手元のスプーンをくるくると回した。
その様子がかわいらしく、昨日見た獣のような姿とのギャップがおかしくて、
「あんまり食べるとまた傷が開くよ」
とからってみた。
彼は神妙な顔をして自分の胸元に目をやり、そうかそれはこまるなあ、とつぶやいた。
それから、今からどうしようかというようにまたきょろきょろしはじめた。
「また寝てなさい」
サンジが言うと、しばらく考えるそぶりを見せてから布団にねそべった。
はじめうつぶせになって、思い出したように痛え、と言って、それからあおむけになった。
ふとんをたぐり寄せて胸元まで引き上げ、じっと見つめていたサンジと目があうと、
「あ、ごちそうさま」
「おそまつさま」
「うまかった」
の、た、が言い終わらないくらいですでに青年はいびきをかきはじめていた。
さすがのサンジもちょっとびっくりしたが、なんだかほほえましかった。





きれいに中身がなくなった皿や鍋を片付けながら、ふと、そういえば彼は「うまかった」と言ったなあ、とおもいだした。
そんな言葉をだれかにかけてもらうのはとてもひさしぶりのことだった。
うれしくて、サンジが皿を台所に戻しながらにやにやしていると、青年の声が聞こえた。
枕元に寄ってみると、青年が寝言で、悲痛な面持ちをして、「強くなるんだ」と言っていた。
そうか強くなるのか、とサンジがはなしかけてみると、聞こえていたのか、おう、と返事をした。
明らかに寝言なのに、力強く、決心に満ちた声だった。
そしてまた高らかに寝息をたてはじめた。
サンジは笑った。
なんとなく腹の傷の理由がみえた気がした。
しばらく、せめて傷が癒えるまでは、彼がここにいるといい。
いいものをひろったとサンジはおもった。







6月4日の日記より。
おじいさんじ、ゾロをひろう。