あの人の大切な
結局ほんとはお前、じいさんのなんだったの、と、唐突にサンジが聞くと、ゾロはこともなげに愛人、と答えた。
サンジが息をのむので、ゾロはにやりと笑って、そのときはじめて庭を見つめていた目をこちらに移した。
去年の冬に亡くなった祖父がよく手入れしていたという庭は、夏の盛りに緑が濃さを増している。
縁側にゾロと並んで腰掛けて、会ったこともない自分の祖父に想いをはせる時間は、
別段家族に特別の思い入れなんかあるわけじゃないサンジにとって、どうしてかとてもかけがえのないものだ。
「うそだよ。お前のじいさんとはなんともなかった」
「ほんとに?」
「当たり前だろ。相手はじいさんだったんだから」
そっか、とサンジが胸を撫で下ろす、またゾロはにやりと笑って、
「でも風呂には一緒に入った」
毛が逆立つような動揺を押し隠しながらサンジは、
「でも何もなかったんだろ?」
「うん、背中流し合ってちょっと前いじられたくらい」
サンジは頬をこわばらせ、それだけ?と聞いた。
ゾロはうなずいた。
「すっげえきもちよかった」
それはどうなの、おれはどう思えばいいのとサンジはぶつくさ言い出した。
こいつをからかうのはたのしいなあと、こっそりゾロはおもう。
ゾロは彼の祖父のことがとてもとても好きだった。
ぼろぼろのゾロをやさしくいつくしんでくれた。
ゾロは、サンジのこともとてもとても好きだ。
なくしてしまった哀しみを円やかに包みこむように、じっとただそこにいてくれる。
ふたりはじいさんと孫の関係で、ゾロはふたりを知っているけれども、ふたりはお互いを知らない。
同じ名前を持っていて、姿もとても似ていて、だけどゾロにとっては全然違う。
「ゾロは、じいさんのこと好きだったんだもんな」
うん、と微笑むと、サンジも目をすがめて笑う、この顔はすごくよく似ていた。
祖父の葬式の日、サンジが近所の人たちに挨拶すると、たいていの人が
「てっきりあの緑色の髪の毛の子がサンジさんのお孫さんなんだとばっかり思っていたわ」
と驚いた。
「とっても仲良しだったのよ。最期までずっと一緒にいて」
隣の家に住んでいるという背の高い美女が、ほらあそこにいる子よ、と指さしたのがゾロだった。
「サンジさんが亡くなるときもずっと傍にいたのよ、あの子」
その話を聞いた父親は、何をどう思ったのか、とにかくゾロにはこれまで通り祖父の家に住んでもらっていいと決めた。
その時ゾロは祖父の主治医の家に泊まっていて、
ワイシャツのボタンを一番上まで留めた父親が慇懃に挨拶するのでひたすら恐縮していた。
「君が父の世話をしてくれていたそうで、申し訳ない」
「いや、むしろ世話してもらってたのはおれの方で、」
と、恐縮と言うよりは困っているふうで、土地財産の権利なんかの話のときは心底居心地悪そうにしていた。
それでもやはりゾロはあの家に戻ることに決めたらしい。
小さな荷物で祖父の家に向かう道すがら、ついてきたサンジに、
お前の父親、じいさんにもお前にもあんまり似てねえのなと小声で嘆息した。
家に着いて、ゾロはコートを着たまま縁側に出て、庭を眺めながらぼうっとしていた。
冬の庭はひっそりと静かだ。
芝生はくすんだ黄色をしていて、全体に精彩を欠いている。
庭に続く窓はおおきく開け放たれ、冷たい風が入ってきた。
サンジはゾロの耳の三つ連なったピアスが小刻みに揺れるのを見、ストーブのスイッチに伸ばしかけた手を戻した。
近づけない、とおもった。
近づきたい、と願った。
それから勝手に買い物に行ってほとんどからっぽの冷蔵庫につめ、勝手に台所で夕食の準備をした。
包丁はまるで昨日研がれたばかりのような切れ味で、料理人だったという祖父がどんなふうにこの空間を愛したのか、
とりとめもない想像をしながら手を動かした。
日が沈む頃、ようやく窓が閉まり、ゾロが部屋の中に戻ってきた。
そこでやっとサンジはストーブのスイッチを入れた。
ゾロはストーブの目の前に座り込んで、冷たくなっているであろう赤い指先を吹出口にかざしていた。
「夕飯出来てるよ。食べるだろ?」
「・・・ん」
ゾロはうつむいてこちらを見ない。
それでサンジはゾロと同じように床にしゃがみこみ、あのさ、と切り出した。
「おれしばらくここにいてもいい?」
しばらく目を泳がせたあと、ゾロはサンジを見た。
ただ見た。
少し驚いたような、悲しそうな、ぼんやりとした、
様々なきもちがこもっているような、どんな感情もないような目で、ただ見た。
だめかな、と今度はサンジが空を見ると、ゾロがいや、別にかまわねえ、と小さく首を振った。
「ありがとう、じゃあ夕飯食おうぜ」
「うん」
その日、サンジは祖父の箸と茶碗を使ってご飯を食べ、祖父の部屋で祖父の布団をかぶって寝た。
寝る前に、ゾロから一通の手紙を渡された。
中には、達筆な崩し字で、愛する孫へと始まり、どうかゾロを宜しく頼むと結んであった。
最後のほうの文字は震えていた。
その手紙の言葉のひとつひとつに、サンジは自慢の金髪をふわりと撫でられる。
彼はどんなにゾロを大切に思っていたことだろう、
そして会ったこともない自分に対して、どんなにか重い信頼を置いていることだろう。
布団にはわずかに老人特有の体臭が残っていて、サンジをあたたかく抱きしめているようだった。
それからサンジとゾロはここで一緒に暮らしている。
冬が通り過ぎ、春がやってきて、それから夏になった。
ゾロが祖父とすごしたやさしい時間は二度とかえってこないけれども、
さわったらほどけてしまいそうな柔らかな時間の糸が綴られてゆく。
「なーコック、ちょっと見て」
パジャマのズボンだけ穿いた風呂上りのゾロが、和室で洗濯物をたたんでいるサンジの元にやってきた。
「どした?」
「ここかゆい」
ゾロはサンジの横に、背中を向けてあぐらをかいた。
ここ、とゾロが指差した、両方の肩甲骨の間のあたりが、なるほど赤くなっている。
軽くさわるとざらりとした感触だ。
「あせもかな。ぶつぶつなってる」
「かいー。薬塗って」
言うそばからゾロが掻こうとするのでその手をつかんでやめさせる。
「最近暑いからな」
薬箱から塗り薬を取ってきて塗ってやる、ためらいなくゾロの素肌に触れる。
「あ、つめて」
ゾロの体の力は抜けていて、首がだらりと垂れ下がっている。
祖父と風呂で背中の流し合いをしていたというくらいだから、
ゾロはたぶん敵意のない他人には素直に背中をさらすのだろう。
薬を塗り終わって指先に残るのはざらついたあせもの感触だけれども、
本当はゾロの肌がすべすべなのをサンジは知っている。
風呂上りのゾロの肌はほかほかで水っぽく、薬がよく伸びた。
ついでに石鹸のいいにおいもする。
あ、いかん、ついへんな気分に。
「去年さ」
唐突な低い声で、ゾロが口をひらいた。
「お前のじいさんもこうやって、薬塗ってくれた。しわしわの手で」
声音は落ち着いているばかりですこしも悲しそうじゃない。
こうしてひとつひとつ、うしなった存在を確かめているのだろう。
「サンジの手は気持ちよかったよ」
たまにゾロは「サンジ」と口にする、それはサンジに向けられているのではなく、いつも呼ばれるのは祖父のほうだ。
代わりにゾロはサンジのことをコックと呼ぶ。
それをくやしいとかはがゆいとかは、あんまりおもわない。
「そっか」
サンジが背中から抱きしめると、ゾロは安心しきったように体重を預けてきた。
かゆみ止めのすうすうする匂いがつんと鼻を突く。
「・・・もうすぐお盆か」
ひとりごとのようにゾロが言う、ああそうかもうそんな季節か、すっかり忘れていた。
こっそりと、ゾロの胸に走る大きな傷跡に指で触れてみる、傷の理由を祖父は知っていただろうかと想像しながら。
サンジは知らない。
何も知らない。
ただ、今の自分はゾロをとても大切に思っていることだけ、ちゃんと知っている。
とてもとても重要なことだから、祖父の墓前に報告しようとおもっている。
それはどんな花をそなえるよりも彼に喜ばれることだろう。
9月13日の日記より。