音もなく散る
ずいぶんと長い間咲きっぱなしだった庭の花がもう咲かなくなったな、とおもっていたら、もう秋になっていたのだった。
水撒きのホースを投げだして、縁側に片膝をたてて窓をあけると、家の中に声をかける。
サンジは台所で夕飯の支度中だ。
「なー」
「なに?」
「来て。庭」
台所の水音を止まり、サンジがゆっくりと、しっかりとフローリングを踏みしめて歩いてくる。
危なげない様子だ。
ゾロの向こうの庭を見て、もう一度、なに、と言った。
「あの花、もう咲かねえの」
「ああ、もう秋だからね」
言って、サンジが目を細めると、皺だらけの目元がますますしわくちゃになった。
それだけ?と聞くのにゾロがうなずくと、サンジはごはんもうすぐできるよ、といって台所に戻っていった。
来年の春はもう、一緒に過ごせないだろうね。
以前サンジがそう言って、しおれた手でゾロの髪を撫でたのを思い出して、ため息をついた。
サンジはもうすぐいなくなる。
それはとても自然な摂理だ。
サンジは年寄りだけど、足腰はとてもしっかりしているし、日常生活に困ることもない。
ひとりぐらしの家に、どこからやってきたかもしれない青年をおいて、一緒に暮らしている。
年寄りというのはこうも無頓着なものなのだろうかと、ゾロは訝しむ。
でも自分では何も言わない。
言っても言わなくても、サンジが今まで長く長く生きてきたことからしたら、ゾロの存在なんてたいしたことない。
サンジの態度はきっと変わらない。
だったら言わなくていいとゾロはおもう。
ゾロはサンジとの暮らしが好きだった。
「ゾロ、お風呂に入ろう」
サンジの作った夕飯を食べて、後片付けを終えてまったりしているゾロの元に、
サンジがバスタオルを持ってやってきた。
サンジは昔はレストランでコックをしていたという。
今も腕は鈍っておらず、彼の料理は美味しい。
それからサンジはきれい好きで、毎日風呂を欠かさない。
ゾロも一緒に入る。
サンジの体を洗ってやるのだ。
「ん、今行く」
ゾロは立ち上がると、一足先に風呂場に向かうサンジを追う。
脱衣場でさっさと服を脱ぐと、サンジを手伝う。
サンジは特に自分でできないことはないけど、それでもやはり若者のゾロよりは動きが鈍い。
ゾロはサンジのグリーンのセーターを引っ張って脱がすと、鼻に押し当ててふん、とにおいを嗅いだ。
「におう?」
サンジはそういうのを結構気にする。
「んー、サンジのにおい」
「どんなの?」
「んー・・・加齢臭?」
サンジがちょっと傷ついたみたいで、ゾロはしまった、とおもう。
「おれはこのにおい好き、安心するから」
「安心する?」
「うん」
そう、とサンジは笑う。
ゾロは先に風呂場におりて、段差でサンジに手を貸す。
風呂場はね、たまにひやっとするよ。
サンジがそう言ってからは、そうすることにした。
風呂場はサンジが熱い湯を好むから、すでに湯気でけむっていた。
湯船の湯をかけ、タオルに石鹸を泡立てて、サンジの体を洗う。
サンジの体は皮膚がたるんでやわらかいけれど、筋肉はさほど衰えていないみたいだ。
骨もまだまだ丈夫そうだ。
ゾロに洗われて、サンジは気持ちよさそうにしている。
ゾロは前より、他人の体をやさしく扱うことを覚えた。
背中をこすると、サンジはんーん、と息をつき、きもちいいよ、ありがとうゾロ、と言った。
「おれも、背中」
そう言ってサンジにタオルを渡すと、背中を向ける。
「おまえの背中は綺麗だね」
ゾロの背を、熱いタオルがゆっくりと上下する。
背中は自分じゃうまくさわれないから、他人に触られるとひどく心地よい。
「気持ちよさそうだね、ゾロ」
「うん」
「もっと気持ちよくしようか」
「うん」
ゾロがうなずくと、サンジのしなびた手が前にまわって、ゾロのものに触れた。
は、とゾロが息をのむ。
「こっちをむいてごらん」
ゾロがサンジのほうに向きなおると、サンジは両手でゾロのものを扱いだ。
「んっ」
鼻にかかった甘い声は、ちいさくても響いて何倍にも聞こえる。
ぎゅ、とまぶたを閉じていると、性急さのかけらもないやりかたで、じわじわと追い上げられた。
老人の手の動きは、歳月を経ているだけに巧みだ。
「ゾロは、若いね」
ゾロが達して、サンジの手を白い液体で濡らしたとき、サンジは小さな声で言った。
まぶしそうに、目をすがめて。
それが湯気でぼやけているのがなんだかとてもせつなくて、ゾロは泣きたくなった。
その日、ゾロとひとつの布団で横になりながら、サンジは自分がコックをしていたときの話を聞かせた。
レストランを大きくすることに夢中で、家なんかほとんど顧みなかった。
そしたら息子に嫌われてしまって、息子が結婚してからは家に寄りつかない、孫に会ったこともない。
孫はちょうど今、ゾロと同い年くらいのはずだよ。
きっとおれにそっくりの、色男だ。
そのあとで、言ったのだ。
「夏までもてばいい方だって言われてたんだよ」
ゾロはサンジのどこが悪いかも知らない。
もうすぐいなくなることだけ知っている。
サンジはふつうの年寄りよりもよほど元気で、悪いところなんかないように見えるのに。
「もう、秋だ。すぐ冬になる。いつまでおまえといれるだろうね」
外では秋の虫が鳴いている。
またすぐに鳴かなくなるのだろう。
夏の花が咲かなくなったのと同じように。
ゾロは悲しくなって、サンジの皮膚がゆるんでやわらかくなった胸に額を押しつけた。
石鹸のにおいと、長い長い今まで生きてきた道のりの中で染みついたのであろう、深いにおいがした。
「ゾロ、おまえは強い子だよ」
サンジのしわくちゃの手がゾロの髪を撫でる。
今すぐ自分も全身しわくちゃになってしまいたかった。
あれほど強くなりたかったのに、今は強い子なんて言ってほしくない。
朝になって、また一日がはじまる。
終わりに近づくための一日を、どうして喜べるだろう?
「ゾロ、おはよう」
サンジがカーテンを開ける。
サンジの白い髪は、朝日を浴びて、金色に光って見えた。
かつて彼は、それはそれは美しい金髪をしていたという。
10月30日の日記より。ずっと書きたかった、老人。