喪失と邂逅によせて
真白な木の箱を前に、サンジは不思議な気分を味わっていた。
箱は棺だ。
棺の中に眠っているのは、会ったことのない、知らない老人だ。
もう動かない。
その人が、父親の父親、つまりは自分の祖父だという。
言われてみれば面影があった。
父親が年をとったらこんなふうだろうか。
他人から見ればきっと、自分にも似ているのだろう。
とっくの昔に亡くなったものと思っていた人が実は生きていて、今、目の前で死んでいる。
とても奇妙であった。
奇妙といえば、葬儀場に集まった人々は皆白髪や皺が目立つのに、
その中に一人だけサンジとそう年の変わらないと見える青年がいるのも奇妙だった。
父親の話によれば、孫は自分1人だけのはずなのに。
祖父の元仕事仲間や親戚たちが挨拶を交わすなか、彼は所在なさげに壁際に立って式がはじまるのを待っていた。
無表情で、どこか心細そうに目を伏せていた。
憂いで染めた黒の喪服に身を包み、立っているだけで絵になるような、美しい男だ。
なんだあの綺麗な男、じいさんの愛人か?
くだらないことをおもいついてサンジは自重する。
たとえよく知らなくとも、自分につながるひとが一人死んだのだ。
下世話な憶測はこの場にはそぐわない。
「この度はご愁傷様で・・・」
「突然のことで息子さんもさぞかし・・・」
しかしサンジは、父親が人々の間を挨拶しながら回るのについていきながらも、彼から目を離せないでいた。
葬式の次の夜、サンジは祖父宅の留守番をしていた。
両親は仕事で一旦戻らなければならないとのことで、祖父宅の整理もそこそこに家に帰っていった。
そもそも祖父の家には物が少なく整頓されているから、改めてサンジたちがする遺品の整理などは楽に済む見通しだ。
やたらと物が多くて片付かない母方の祖父の家とはまるで違う。
誰にも迷惑をかけないよう、ひとりでひっそりと生活していた家のように感じる。
食器や部屋の調度はどれも品がよく落ち着いて、サンジの好みに合っていた。
生きている間に話していたら気が合ったかもしれない。
そんなことをぼんやりとおもいつつも、知らない家に取り残されたサンジはなんだか居場所がなくて、
居間のテレビでできるだけくだらない番組を見て気を紛らわしていた。
「あー・・・暇だ」
あまりに景気が悪いので、ひとり言を声にだしてみる。
人が死んだ家にひとりでいるのは、やはり気味が悪かった。
なぜ祖父が生きているうちに会うことがなかったのか疑問だった。
しかしただでさえ物静かな父は祖父の訃報からずっと押し黙ったままでいるから、
聞くことがひどくためらわれた。
そんなことを考えといると、サンジの気分はなんとなく重くなった。
そのとき、玄関が開く音がした。
誰だ?
玄関の鍵は閉めていたはずだ。
インターホンも鳴らさず、勝手に鍵を開けて入ってくるような人物に心当たりはない。
ひやりとして立ちつくしていると、ぺたぺたと足音がする。
居間の扉が開き、サンジが飛び上がると、逆に侵入者の方が驚いた顔をした。
「・・・なんだ、だれかいたのか」
式場にいた、あの若い男だった。
「悪かったな、勝手に入っちまって。誰もいねぇとおもってたから」
「あ・・・いや、」
サンジは戸惑った。
あの日とどことなく印象がちがう。
式場でサンジが見た横顔はもっと無表情ではりつめていて、話しかけるのも躊躇するような雰囲気だったが、
今のくだけた様子はごく普通の同世代の男だ。
「お前じいさんの孫だろ?」
男は遠慮のない様子で椅子に座ると、サンジにも座るようすすめた。
「まあ・・・そうだけど」
「はじめて会ったじいさんが死体だなんてな」
男は皮肉っぽく歯をむきだしにして笑った。
どこか心細そうな目のせいで、アンバランスな表情だ。
「あの、どちら様で」
「ここの居候」
「居候」
奇妙な単語だった。
男はサンジのおうむがえしに笑って、それからゾロと名乗った。
「置いてあるおれの荷物、邪魔だとおもって取りにきた」
「はあ・・・」
サンジはテレビが下品な笑い声をあげるのを遠くで聞きながら、ゾロの顔をまじまじと見つめた。
表情が乗ったせいで雰囲気がちがうが、美しい造作をしていることに変わりはなかった。
「じゃあちょっと」
ゾロは立ち上がり、隣の部屋へ歩いていった。
茶でもだすべきかなとサンジが気付いたのは、見てもいないテレビを消してからだった。
邪魔しちゃ悪いとおもったサンジは、しかし好奇心に勝てず、三十分もしないうちに隣の部屋に入った。
その好奇心は、祖父の生前よりもむしろゾロに向いていた。
「茶、入れたけど」
床には旅行鞄がおいてあり、半分くらい服やなにかがつまっていた。
ゾロはサンジのほうを見もしない。
電気のついた部屋はこうこうと明るいのに、
床にぺたりと座り込み背中を丸めたゾロの姿は、暗がりをまとうようだった。
泣いている、と直感した。
サンジは話しかけるべきなのか、それとも見なかったふりをすべきなのか迷った。
ゾロの様子は、故人ととても親しい仲だったからこそのもののように見え、
居候という言葉がサンジのなかで宙ぶらりんになる。
茶の盆を持ったまま逡巡していると、ゾロが顔を上げた。
「悪ィな」
目元と、鼻が赤くなっていた。
サンジがどうしたらいいのかわからないでいると、ゾロは手を伸ばして湯呑みを受けとった。
ゾロが茶をすするので、サンジもその場にあぐらをかいて口をつけた。
湯呑みは茶渋でいい具合に色が変わった萩焼きだ。
大切に使い込まなきゃこうはならない。
ゾロはじっと黄緑色のお茶の色を見つめ、黙っている。
何か言わなくては、という脅迫にも似た気持ちにかられて、サンジは口を開いた。
「あのさ」
それでその後何と続けるつもりだったのか。
しかしそれも、ゾロのほんのちいさなつぶやきにかき消えた。
「・・・好きだったのにな」
その言葉は湯呑みの中の液体をわずかにふるわせただけで、部屋のなかのなにもかもは微動だにしなかった。
けれどサンジのなかを大きく揺るがすには充分だった。
は、と息を呑む。
そうしなければならないとおもう。
寸分のためらいもない。
サンジはゾロを抱き寄せた。
ゾロは一瞬身をすくませてから、当然のようにサンジの肩に頭をあずけた。
「好きだったのに、な・・・」
くぐもった声を絞るゾロの背中をさすった。
ゾロはぐうと喉をならし、しばらくの間サンジの腕の中でふるえていた。
なにやってんだ、おれ。
わけもわからず惹かれる気持ちを遠巻きに眺めながら、祖父は自分と似てたんだろうな、と奇妙に納得した。
ゾロの足元には一通の手紙がおいてある。
宛先はかつて美しい金髪をしていた老人の、会ったこともない孫である。
手紙には結局直接は言えない息子への謝罪やこまごまとしたこと、それにゾロを宜しく頼むと書いてある。
大切な子だから、どうか自分の代わりにやさしくしてやってほしいと。
老人の若いころにそっくりな、美しい金髪をした青年は、まだそれを知らない。
2月18日の日記より。音もなく散る、の続きというかなんというか。
おじいさんじの孫、サンジ。