月夜にひかる猫ひとり
メスの白猫とオスの白猫の間に5匹の仔猫が生まれた。
母猫にとってはじめての仔猫で、大切に育てていた。
5匹の仔猫たちはそれぞれ力強くおちちを吸うから、みんなきっと強い子になるのだろう。
やがて仔猫たちの毛が生えそろい始め、個性がわかるようになってくると、母猫は異変に気が付いた。
まっしろでほやほやの毛の波に混じって、若草の芽のような毛並みがいっぴき。
はじめはうっすらと色付いているようだったのが、だんだんとその緑がはっきりとしはじめる頃には、
仔猫たち自身も兄弟の中に一匹異端児が混ざっていることに気付き始めた。
母猫ははじめ緑の子も同じように愛そうと努力したが、どうしてかうす気味悪さが先に立ってしまった。
仔猫たちの巣立ちの日をいつにするかもまだわからない頃、
母猫は緑の仔猫を追い立てて、巣から遠ざけその子を捨てた。
緑の仔猫はまだ餌の取り方も、猫社会での生き方も教わっていなかった。
自分の身を守る方法も、何が危険で何が安全かもわからなかった。
さっきまで傍で体を舐めてくれていた母猫が、突然恐ろしい形相と勢いで自分を追いたて、
巣から追い出されてしまった。
やさしいはずの母猫が怖くてめいっぱいの力で地面を蹴ると、巣の匂いがどんどん遠ざかった。
やがて違う匂いに気付くと、知らない大人の猫がテリトリーを主張して緑の仔猫に牙をむいた。
あちらに逃げればあの猫に、こちらへ逃げればこの猫に、礼儀を知らない餓鬼だ、出て行けと怒鳴られて、
とうとう巣の場所も自分がいる場所もわからなくて途方に暮れた。
とぼとぼと道の端を歩くと、今度は大きな犬に吠えられた。
犬の口は大きくて、涎がしたたっていて、自分なんか一口で飲み込まれてしまいそうだった。
はじめて見るおそろしい生き物から必死で走って逃げて、どきどきしっぱなしの心臓を休めようと塀の上に座った。
あらい息をついていると、人間の親子が塀の前で足を止めた。
緑の仔猫にとって人間というのは、犬よりもずっと奇異な形状をしているように感じられる。
巨大な、けれど二つをくらべると小さいほうが、緑の仔猫を指さした。
「ママ、あのねこへんないろ」
「ほんとうね」
より巨大なほうの人間が手を伸ばすから、あわてて塀の人間のいるほうとは逆方向に飛び降りた。
走って走って、安心して丸くなれそうな場所を探した。
できれば自分の巣に帰りたかった。
母猫の、兄弟のぬくもりが恋しかった。
けれど、母猫のあの顔を思い出すと頭が凍えるようだった。
ゴミ捨て場のゴミ袋とゴミ袋の間にちょうど体が入りそうな隙間があって、そこに飛び込んだ。
はじめての独りぼっちの晩を、緑の仔猫は冷たくて臭い場所で過ごした。
まどろみながら、月を探して、全部全部夢だったらいいのに、
目を覚ましたらあの巣のぬくもりの中だったらいいのにと思った。
黒い空に浮かんだ月は、ふうわりとやさしい金色に光っていた。
次の朝、目が覚めてからもしばらくはゴミ袋の間で小さく丸くなっていた。
おなかがすいていた。
昨日からずっと、何も食べていない。
まだ母猫のおちちと、母猫がくれた数種類の食べ物しか口にしたことがないから、
自分で何が食べれるのかがわからない。
それに昨日初めて経験した外の世界はとても怖くてたまらなくて、出て行くのが嫌だった。
しかし大きな音がして、どでかい鉄の塊と人間がやってきた。
ゴミ袋を持っていくためにやってきたようだった。
ぴゅう、と緑の仔猫は逃げ出した。
巣の外の世界には見たことのなくて怖いものしかない。
怯えて怯えて、空の月を見上げては、巣の中にいたときの夢ばかり見た。
どうやったら楽になれるかも、幼い緑の仔猫は知らなかった。
日中は逃げ走ってばかり、休むときもびくびくと怯えながらで落ち着くことはなく、
そして何も食べずに数日が過ぎた。
ほんの小さな彼にとって、一日は長い。
緑の仔猫はもうふらふらで、走って逃げる元気もなくなってしまっていた。
ぱたりと地面に横になる。
芝生が生えていて、その色は少し前まで自分の毛の色とそっくりだった。
けれど今は自分の毛がすっかり汚れて、芝生の朝露に洗われた色とは似ても似つかない。
細くなった自分の前足で顔をこすった。
人間だったら多分、涙を流しているんだろう。
ゆっくりと目を閉じる。
さわさわと、風が毛並みを撫でていった。
まるくなる気力もなくて、だらりとした四肢を地面に支えてもらっている。
地面は母猫の巣にいたときと変わらず平等だ。
遠くからギャアギャアと鳴き声がして、黒い鳥が数羽、緑の仔猫のもとにやってきた。
上空をぐるぐるとまわって、緑の仔猫を狙っている気配がする。
でももう立ち上がるちからすらない。
ものすごい羽音が近づいてきた。
薄目を開けると、まっくろな体がすぐそばにあった。
ぎゅう、ととがった足の先で体を押さえつけられる。
カラスが緑の仔猫の体をつつきはじめた。
とても重たい。
痛い。
怖い。
お母さん。
「こら!何やってんだ」
突然体が軽くなった。
羽音がして、黒い鳥は飛び去っていった。
「大丈夫か?」
ぬくもりが体に触れる。
母猫が体を舐めてくれたときみたいな感触が、頭のほうから背中にかけてはしった。
触れられたところからびりびりと電流が走って、体の細胞ひとつひとつが息を吹き返すようだ。
「たいした怪我はないな。立てる?」
よろよろと危なげに立ち上がる。
目を開いて、ぬくもりの姿を確認すると、それは人間だった。
「なんか食べるか?あ、仔猫だからミルクかな・・・ちょっと待ってろよ」
てっぺんが月みたいに金色できらきらしていた。
今まで見てきた外の世界の大きなもの全てには恐怖しか感じなかったけれど、怖くなかった。
巣を追い出されてからはじめてのことだった。
月が遠ざかって、またすぐに戻ってきた。
「はい、飲みな」
緑色の仔猫の前に、白いお皿に注いだミルクを置いた。
鼻を動かして匂いをかいでから、すぐに舌を使って飲み始めた。
母猫のおちちと少しだけ似ていた。
「こんなにやせて、可哀想になぁ」
額にそっとぬくもりをのせられた。
飲むことに集中していたからびっくりして飛びのき、傍の車の下に隠れた。
ちょこっと顔をのぞかせて、月をじっと見たまま固まる。
「ごめん、ごめん」
そう言って月は皿から少し離れた階段に腰を下ろした。
おそるおそる近づいて、上目で月の姿を確認しながら、また飲み始めた。
数日ぶりに口にする食べ物は、もう味もなにもわからなかった。
ただ必死で飲み込んだ。
お皿が空になると、月の手が伸びてそれを取り上げた。
「おなかいっぱいになったか?」
もう片方の手で緑の仔猫の額を撫でた。
まぶしいくらいに月は笑った。
こんなふうにだれかにやさしくされるのは巣を追い出されてはじめてで、体が震えた。
「おい、サンジ!サボってんじゃねぇ!」
階段の上のドアから別の人間が顔を出して怒鳴った。
ドアの隙間からたべものの香ばしい香りが流れ出てきた。
「じゃあな、おちびさん」
そう言ってもう一度緑の仔猫の額を撫でた。
さっきよりも強い力で。
そして振り返り、階段をのぼってドアの向こうに消える。
月は沈むように行ってしまったけれど、緑の仔猫はそこから動けないままだった。
その場所は、レストランの裏庭だった。
勝手口から出るそこは、ゴミ置き場兼従業員駐車場になっていた。
緑の仔猫は行き場所がないから、そこに居つくことにした。
もう一度、遠くの空でなく、すぐ傍に浮かんだ月を見たかった。
あの月なら、外の世界でだれにもやさしくしてもらえなかった自分に
きっとまたやさしくしてくれるんじゃないかとおもった。
三台並んだいちばんすみっこの青い車の下で眠ることにした。
久しぶりに食べ物を口にしたとはいえ、そう簡単に回復するわけではない。
月が自分に笑いかけ、自分に触れたことを思い出す。
落ち着かなくて何度も体勢を変えながら、緑の仔猫はゆるゆると眠りに落ちていった。
久しぶりに安心して、深い眠りについた。
車のドアが開き、車体が揺れるのを感じて目を覚ました。
エンジン音が耳元で響き、びっくりしてぴゅうと車の下から滑り出る。
空気がすっかり冷たくなって、空は黒く、今日の月は白色に光って見えた。
あの、金色の月に、もう一度会いたくてたまらなかった。
青い車がぴかぴかしながら流れるようになめらかに去ったあと、
階段の下にちょこんとすわって扉を見上げた。
ただ、じっと、扉が動くのを待った。
母猫の巣にいたときから待つのには慣れている。
あの月の、金色の光、笑顔、ぬくもり、触れられたときの自分、やさしさ、心への、ぬくもり。
やさしいひかり。
おもいだすだけで心臓がとくとくといつもよりもはやく波打った。
恐怖で心臓を動かしたときとは違う、心地よい熱が体を支配してゆく。
緑の仔猫の小さなからだいっぱいに、月への想いがふくらんだ。
扉がわずかに開いた。
その隙間から粉っぽい光と、月ではない人間の一部が飛びだした。
鮮やかな、けれど夜の闇に暗いフィルターをかけられたオレンジ色がてっぺんにあった。
「あ、猫」
やっぱりびっくりして飛びのいた。
階段の傍らの植え込みの低木の根元に隠れる。
「サンジくん、さっき言ってたおちびさんってこの子かしら」
扉から体半分だけ出して、中に向かってオレンジ色は尋ねる。
「緑色だった?」
「逃げちゃったからわからなかったわ」
声が遠ざかり、扉が閉まる。
そわそわしながら階段の下をうろうろしていると、再び扉が開いて今度は月が出てきた。
「それじゃナミさん、お先に」
「お疲れ様」
月の金色は夜の闇のなかでもくっきりと輝いていた。
見とれて、退くのも忘れて月の色に見入った。
階段の最後の一段まで降りた月は、かがみこむと、ひょいと緑の仔猫を抱き上げた。
金色が近づく。
力強いあたたかさにうっとりとした。
「首輪してない・・・野良なのかな。うち、来る?」
にっこり笑った。
ますますまぶしい、金色の月。
緑の仔猫は瞬きを繰り返した。
そうしないと夜に慣らした目はつぶれてしまいそうだ。
小さな体ぜんぶがふるえるくらい、心臓が激しく鳴った。
そのふるえが、月のぬくもりのかたまり、その手までふるわすんじゃないかと思った。
「うちの子になる?」
月がしゃべった言葉の意味はわからなかったが、にゃあと一声鳴いてみせた。
できるかぎり抱かれたそのままでいたかった。
やさしい月の、そばに、できるだけ。
「じゃあ決まりだ」
頭から背中にかけてするりと撫でられる。
母猫に体を舐められたときよりもずっとずっと馴染むようで、気持ちがよかった。
おとなしくしていると、何度も何度も撫でられた。
「いい子」
「飼うの?」
いつの間にかオレンジ色が近くに来ていた。
二人は並んで歩きはじめた。
緑の仔猫が落ち着かなくごそごそと身動きをとると、きゅうと胸に抱きこまれた。
「うん、うちのマンションペット禁止じゃないし」
「いいなあ。私も飼いたい」
「遊びに来てやって」
「名前は?」
「これから考える」
街灯の下に来たとき、月は緑の仔猫の体を高く掲げて光で照らしてみせた。
「ね、緑色」
「ほんとだ。子供のいたずらとか、かな」
「帰ったら洗ってみるよ」
不安定な持ち方をされるとおっこちてしまいそうではらはらする。
四本の足をばたばたと動かすと、気がついたようにしっかりと抱きなおされた。
「ロロノア・ゾロ」
「え?何、ナミさん」
「その子の名前。たぶんロロノア・ゾロだと思う」
「何で?」
「根拠なし。それじゃ、またね」
笑顔ではぐらかして、オレンジ色は身を翻した。
目の前の明かりのついた一軒家の中に入っていく。
その家のドアが閉まるのを確認してから、月は再び歩きはじめた。
「ロロノア・ゾロだって。ゾロか。よろしくな、ゾロ」
特に疑問をもたれずに緑の仔猫はロロノア・ゾロと命名された。
道すがら何度もゾロ、ゾロと呼ばれたから、自分の名前がその音なんだとゾロにもわかった。
「ゾロ、俺はサンジだ。さっきのかわいい女の子は、ナミさん」
月の名前がサンジというのだとわかった。
ついでにオレンジ色はナミさんという名前だと。
でかい灰色の建物の入り口をくぐって階段を昇って、サンジの家に着いた。
サンジの腕の中はとてもあたたかくて、安心できて、いつの間にかうとうととしていた。
金色の月の地面に寝転がり、あたたかい風の手に背を撫でられる夢を見た。
おちびさんはBUMPの「K」の『こんばんはすてきなおちびさん』というくだりから。
はじめはあっさり淡白童話風を目指してましたが諸事情によりいつもどおりに。
この話、驚くほど筆が進みました。ろくに推敲(まあ普段からしないけど)もせずにあっぷっぷ。
なんかいろいろと書ききれてません。