バニラ
真夏なのに、真昼なのに、閉めきった部屋では、クーラーの音ばかりがごうごうと響く。
ソファの上、ならんでくっついて、お互いなにもいわない。
なにをしているわけでもない。
ただ、ふたりでいる、ということを享受して、愉しんでいる時間である。
ゾロがくあ、とあくびして、その口もとに手をやったとき、ふわり、香った。
あまったるい、バニラの香りだ。
ゾロの手をじっと見る。
「何?」
「・・・いや」
そんな香りを、彼がさせているなんて、とてもとても意外だった。
知らないだれかの、可愛らしい影が見えた気がして、胸がちくりとした。
おれの、おれのゾロなのに。
「ずいぶんかわいいにおい、させてんだな」
「前に、ビビがくれたやつ。今、せっけんきらしてて」
「ふうん」
ビビちゃん、か。
あの娘ならわかる。
ビビちゃんはかわいいものが好きで、おくりものをするのが好きで、ゾロのことが好きで、
それでおれとゾロがこういう関係なことを知らない。
ゾロの手をとって、鼻に近づけてみる。
むねやけするくらい甘ったるい、人工的なバニラの香りは、
ごつごつしたゾロの手にあんまりにも似合わない。
ビビちゃんは何をおもって、ゾロになんか、こんなものを。
「いつ、もらった?」
「先月?たぶん、傘返してもらうときにもらった」
「傘?」
「なんか駅で会ったとき、雨降ってたから」
「おまえはどうしたの?」
「小降りだったから走って帰った」
「・・・・・・おまえね」
そうやって、期待させて、ゾロはひどいやつだ。
おれなんか、もう女の子に必要以上にやさしくしたくてたまらないのを自粛しているのに。
ゾロがいるからだ。
ゾロにだって、おれがいるのに。
駅で電車を降りて、雨が降っていて、どうしようかと迷うビビちゃんが目に浮かぶ。
家に迎えを頼もうか、走って帰ろうか、近くの喫茶店で止むのを待とうか、
考えをめぐらすうちに次の電車からゾロが降りてくるんだ。
余計なことはなにも言わないで、持っていた傘をわたして、じゃあな、と走っていく。
ゾロの背中には雨で濡れたシャツが張りついて、それが見えなくなるまで見送る。
手元にぎゅっと握った傘は、男もので、自分の手には少し大きい。
返すために会えるなあとか、お礼になにをあげようかとか、考えるのはとても楽しい。
そうだろ?
「なんだよ」
「べつに?」
「・・・・・・なんだよ」
「べーつーにー」
ほんとうにおもっていることは言わない、返事をすると、ゾロが無言で頬をひっぱってくる。
その手からはバニラの香り、気に入らない。
不機嫌になるなっていうほうが無理だってことを、ゾロはわかっていない。
「その匂い、やめろ」
「なかなかとれねぇんだよ」
「洗ってこいよ」
面倒くさそうに立ち上がり、ゾロは洗面所に向かう。
素直に言うことをきくゾロなんて変だ。
でも、ゾロが言うことをききたくなるくらい、きっと今のおれは不機嫌に見えるんだろう。
わかってないよ、わかってないよ、ゾロ。
ビビちゃんがどんな気持ちなのかも、おれがどんな気持ちなのかも。
「洗ったけど」
ほら、と両手を鼻先にもってくる。
うちの石鹸の花の匂いにまじって、まだほのかにバニラの香りは残っていた。
「ビビ、なんかいろいろくれんだよ、せっけんとか、飴とか、サメとか」
「サメ?」
「おきもの。おれに似てる、とかいって」
「ふうん」
そんなことを聞いたら、ますます不機嫌になるしかない。
ビビちゃんは、お礼とかプレゼントとか、そういう名前を借りて、
少しずつ少しずつゾロの部屋や、持ち物や、ゾロ自身やゾロの心に侵食していくつもりなんだ。
なんでそれがおまえにはわかんないの、ゾロ。
バニラの香りがしつこく残っているのも、なにもかも、気に入らないよ。
おまえはおれのだろ?
その手首から先を切り落としてしまいたいくらいだよ。
ゾロはおれの機嫌が悪そうなままなのを見て、だんだんいらいらしてきてる。
でも、おまえは、わかってないよ。
ゾロの手の甲をかじってみても、なにも変わらないことにかわりはない。
7月18日の日記より。
ビビちゃんにやきもちを焼くサンちゃん。