夜の箱
触れられないだけの距離がある
こんなにちかくにいるのに
夜のメリー号。
四方を海に囲まれて、先の見えない場所に碇を下ろしている。
海は吸い込まれてしまいそうなほど真っ黒に、月明かりをはじいててらてらと光っている。
飛び込んだら消えてしまえそうで、かすかな誘惑を感じて自嘲する。
そんなふうに思うなんて、どうかしている。
トレーニングを終えたゾロ水を飲もうとキッチンに入ると、メリー号自慢のコックがテーブルに突っ伏して寝ていた。
投げ出されたライターとつぶれた空のタバコの箱、綺麗に片付いたシンク。
片付けと明日の下ごしらえを終えて一服しようとしたのに、タバコが空でフテ寝、というところだろうか。
昼間、休みなく働きまわるコックの姿を思い出すとねぎらいたくなる。
気配を悟られないようにそうっと、コックに近づく。
金色の髪は潮でべたついていて、でもきれいで、つい、触りそうになって手を引っ込めた。
腕の中に埋もれて半分だけ見える顔に息を殺して自分の顔を寄せると、
細いまつげまで金色なのがわかる。
今はまぶたで隠されているけれど、コックの青い目はすごいんだ。
海の青、空の青とも違う、近くで見ると白けて濁っていて、遠くで見ると澄んで深い青。
一日をやりきって、疲れているけれど充実した表情をしている。
ため息がでそうで、顔を離した。
静かに胸をふるわせながら、ゆっくりと吐いた息はゆれていた。
起きるなよ、起きるなよ。
念じながら、ふるえる手をコックの顔に近づける。
無骨な人差し指で、刺繍糸でできた飾りのようなまつげに触れる。
指の腹で、長いまつげの先を、ちりちりとなでていく。
まなじりからめがしら、めがしらからまなじり。
まつげはとても柔らかかった。
けれどこしがあって、触れるとしなり、離すとまた伸びるということを繰り返していた。
指の腹、本当にわずかな部分が、彼に触れるという幸福を享受している。
たまらなかった。
この現実とは不似合いのうつくしいものに比べて、自分の血に濡れた手はあまりに穢れている。
神に触れる禁忌を犯した人間の気分だ
「ん・・・」
もそ、とサンジが二の腕に乗せた頭の位置を変えた。
まずい。
とびずさり、まだ寝ていることを確認すると、あわててキッチンを後にする。
もちろん音をたてたりしないように注意しながら。
ドアを飛び出して見えた海は相変わらず真っ黒な深い穴のようだったが、
月明かりが先ほどよりもまぶしく感じられた。
飛び込んだら消えてしまえそうで、鼻の奥がつんと痛くなった。
金色のまつげに触れた指先をじっとみつめる。
月明かりにぼんやりと見えるそれは、太くて、ごつくて、皮は硬くてかさかさ、
何度も他人の血を経験してる。
あのまつげは、なんてそれに似つかわしくなく、優美であったことか。
罪を犯したその指の腹に、罰を与えるように、きり、と噛み付いた。
歯形のついたそこは、まっしろくなって、それからじわりじわりと赤味に侵食されていった。
サンジが目を覚ますと、キッチンのドアが開けっ放しになっていた。
夜の海風の冷たさが、サンジを起こしたのだ。
体を起こすと、下敷きにしていた腕がびりびりとしていた。
また盗み食いか?
冷蔵庫や下ごしらえをチェックしたが、それらしい形跡は見当たらない。
おや、と思って甲板に出ると、ゾロがいた。
ゾロは何かを深く考えるように、海をにらみつけていた。
月明かりがゾロの横顔をくっきりと照らしていた。
人外のもののようにうつくしくて、声をかけることがためらわれた。
それでも一声ゾロ、と口にしようとした。
思い通りに動かない唇は、それでもわずかに動いたが、音にはならなかった。
あんなうつくしいゾロを見たら、声をかけることなんかできなかった。
こんなに近くにいるのに。
お互いに、お互いのせいで、お互いが、すべてが、今、こんなにも遠い。
3000hitで吉野さんに。お題は原作沿いサンゾロでした。
・・・サンゾロ?
原作設定は非常に高いハードルでございます。