憂鬱ですらあなたのために
あの夜から、一度もサンジとは会っていない。
サンジの屋敷を訪ねれば必ず会えると根拠もなく思っていたのに、
女学校の帰りに寄るとサンジは留守にしていた。
中でお待ちになってください、じきお帰りになりますから、と言う下女に、
大した用事でないと断わって家に帰った。
ひきとめたそうにする下女の下がった眉が、サンジのそれにどことなく似て見えて、
会えなかったことがいっそうかなしいことにおもえた。
部屋へ入るとすぐにばあやが呼びに来た。
「サガさまがいらしてますよ」
はっきり言って会いたくなかった。
むかし、彼と会ったことなんてほんの数回で、ゾロはわずかにしか覚えていないというのに、
どうしてサガはゾロのことをよく知っているみたいな顔をするのだろう。
「申し訳ないけれど、気分が悪いと言って」
「まあ、お医者様を呼びますか?」
「・・・寝れば治る」
「それではすぐに布団を敷きますね」
百合の花はまだ生けられたままだった。
昨日はまだ蕾だった花があらたに一輪咲き、新鮮な香りをただよわせている。
なんだか呼吸がしづらくて息苦しい。
きっとあの花のせいだ。
「あの百合」
袴の紐を解いて脱ぎながら、気鬱にことばをつなげていく。
「この狭い部屋にはもったいないから、居間にかざって」
脱いだ袴をたたみもせずにほうったまま、布団に横になった。
ばあやが敷いた布団は、ゾロが自分でするよりもぴしっとしていた。
掛け布団を頭の上までひきずりあげる。
なんだかとてもいらいらしていた。
会いたいひとに会えず、会いたくないひとには会わなきゃいけない。
サンジに会えず、肩すかしを食っただけでこんなにも心が乱れるなんて。
ばあやが気をつかって静かに障子を閉め、去っていく響きをかんじる。
まぶたを閉じて、サンジうかぶのはサンジの顔。
それなのに、部屋にはあの百合の花のきつい香りが残っていて、鼻をつく。
はやく眠って、こんな想いは忘れてしまいたかった。
人の言い合う声が聞こえて目が覚めた。
浅い眠りだったせいか、すこし頭痛がする。
それでもなんとか起き上がると、声のするほうへむかった。
足袋を履いた足の裏が、床をやけに冷たくかんじとった。
夜になったのと、寝起きで体が火照っているせいだろう。
「どうかしたの・・・?」
声がしていたのは、居間からであった。
「ゾロ、起きて平気なの?」
サンジだった。
サンジが、サガに着物の襟をつかまれて、そこにいた。
「・・・なんで」
「昼間、うちに来てくれただろう?おれ、留守にしてたから、どうしたのかなって」
サガの怒りをあらわにした赤い顔がすぐ近くにあるにもかかわらず、
サンジはゾロのほうばかり見て、随分と間の抜けた格好になっている。
「そうじゃなくて」
「ゾロ、座りなさい」
先生がゾロの言葉をさえぎった。
その目はいつものようにおだやかだったが真剣で、ゾロは身がしまる思いだった。
「君たちもだ。ふたりとも、座って」
「でもこの男は・・・!」
「いいから。サガ君、サンジ君から手をはなしなさい」
サガはしぶしぶといった体でサンジの着物から手を離した。
サンジは襟元を正すと、背筋を張って正座する。
「ゾロ」
先生はまっすぐにゾロを見る。
詳しくわからないがゆえによけいにいたたまれない状況だ。
すぐにも逃げ出したかった。
「サンジ君が、君をくださいと僕に言ったよ」
先生がきっぱりと告げる。
おもわずサンジのほうに目を走らせると、サンジは緊張し不安そうにうつむいていた。
「ゾロ、どうする?」
「どうって・・・・・・」
寝起きの頭はうまく働かない。
ふわふわと浮かんで沈んで、まだ夢のない眠りの時間のつづきのようだ。
実体のない何かの行き先をまだ探している途中なのに、
どうして終着点ばかりを先に求められてしまうのだろう。
「どうもこうもありませんよ小父さん!なんですかこの男・・・!」
「サガ君、静かにしてくれるかな」
「でも・・・!」
「ゾロ」
眉間にしわをよせているゾロに気付いたサンジがやさしい声で呼びかける。
「ごめんね、困らせるつもりじゃないんだ」
サガがまた口をはさもうとするのを、視線だけで先生が制す。
サンジは立ち上がり、机のはしをぐるりとまわってゾロのほうへ来て膝をつく。
足と足がぶつかりそうな位置だ。
「でもおれ、ゾロがだれかほかのやつと結婚しちゃうなんてやだから、
ゾロに言わなきゃっておもったのに、思い切って来たらゾロ寝てるっていうし、
婚約者はいるし・・・あせっちゃって」
ゾロの膝のうえ、震えている手にそっとサンジが手をかさねる。
その手がひやりと冷たくて、びくりとして顔をあげると、サンジもまた戸惑うような顔をしていた。
「あの夜、あんなことしてゾロを驚かせちゃったけど、おれは・・・」
まるきり知らない男のような顔をする、この男のことをゾロはよく知っている。
あの再会の日から、少しずつ知りなおした。
想い出のなかの少年ではない、今の彼のことを。
サンジが続ける言葉を待つ。
その先で、どうしてあの夜、サンジに会いにこごえる暗闇を走ったのか、
どうしてあの夜サンジが水仙が咲いたと告げに来たのか、
くちびるがわななく原因も胸が痛む理由も、ぜんぶぜんぶわかる気がして。
「ゾロが好きだ。おれと、結婚してほしい」
ゾロは結局サンジしか見てないのよ。サガなんか眼中にないのよ。
つうかこれ大正じゃないよね・・・大正はもっとモダンだよね・・・うおおおおわからーん。