ずっと、ずっと好きで、今も。
だって、ほんとうに。
もう二度と会えないと思っていたんだ。
次の角を曲がれば我が家、というところで、ふたつ先の曲がり角から現れた姿に心臓が止まった。
緑色の、髪の。
うそだうそだと脳味噌の信号がぐるぐると回ったのに、
やってきた緑髪は顔を上げておれの姿を認めると、微笑んだ。
うそだ。
だって。
「サンジ、久しぶり」
あんまりにも突然だったから、ぐちゃぐちゃの頭で、
何を言おうか必死に考えていたけれど、そんなのより先に口のほうが動いた。
動いてしまっていた。
「な、なんで・・・?」
「今度そこの中学に赴任したんだ」
ゾロが教師になったなんてことも、今はじめて知る事実で。
だいたいそこの中学って言ったらおれの母校だ。
ああそうじゃなくて、そうじゃなくて、そうじゃなくて。
「お前は―――やっぱりコックやってるのか?」
「あ、あぁ」
「そうか」
ぱぁーって。
ぱぁーって音がするような、嬉しそうな笑い顔になった。
その笑顔は、付き合い始めたころ、すでに見られなくなっていた、
初めて出会ったときと同じような、まっさらの。
「昔と同じ所か?」
笑顔にどぎまぎしながらあわてて何度も首を縦に振った。
ゾロは満足そうだ。
「そうか、今度行くよ。じゃあな」
ゾロが背中を向けかけてしまうから、あわてて腕を掴んだ。
「ま、待って!」
その後どうするつもりかなんか、考えてない。
ゾロは、子供にするみたいに苦笑した。
「何?」
「あ、あの、えっと・・・」
上手く言葉が出てこない。
全身が真っ赤になって、汗がだらだらこぼれているのがわかる。
こんなに余裕がないなんて。
「あ・・・、ゆ、夕飯まだだろ、うちで食っていかねぇか?」
ようやく出た言葉はこんなだった。
ゾロの目を見ると、ゾロもおれの目をちゃんと見ていた。
考えている、量っている、ゾロの目線。
お互いじっと目を見つめあったまま過ぎる時間はほんの数秒だったんだろうけど、
おれにはほんとうに、ほんとうに長く感じられた。
「ん、じゃあ邪魔する」
部屋の掃除をしておくんだったと、後悔している。
数十メートルの距離を、もう、震える足で歩いた。
斜め半歩後ろを歩くゾロがどんな顔をしているのか見たかったけど、
自然にかける言葉が見付からなかった。
あわあわとしているうちに家についてしまった。
あの頃と同じジジイの一戸建てに、相変わらずほぼ一人暮らしの状態だ。
鍵を差し込む手も震えていた。
そんなおれを見て、ゾロがどう思っているか知りたくなかった。
数年前、おれたちが大学2年だった春に、おれたちは合コンで出会った。
「迷った」と一言言って、3時間遅れでやってきたゾロは、
その場にいた女の子たちにえらく人気があって取り囲まれながらも、
終始退屈そうに、帰りたそうなそぶりを見せていた。
たまたま帰る方面が同じで一緒に帰った。
一体どんな話でつないでいたのかわからないくらい、当時のおれたちには接点がなかった。
それでも会話はそれなりにはずんだ。
お互いがふと黙った瞬間があった。
それからゾロがぽつりと、疲れた、ああいうのは苦手だ、
と言ったときの気の抜けた素朴な表情に惹かれた。
見てりゃわかるぜ、お前わかりやすすぎる、と答えると、ゾロはけらけら笑った。
それから仲良くなって、一年くらい後には、
どちらから告白したというわけでもなく恋人同士と呼べるような間柄になっていた。
しばらくの間は幸せだった。
好きな相手が自分のことを好きというのは本当に気持ちがいいことなんだと知った。
それなのに、徐々におれはゾロの気持ちに甘えるようになってしまった。
転落は早かった。
その時のおれは最低の最低、底辺だった。
ゾロのことを何一つ考えずに一方的に抱きまくった。
場所も、時間も、何もわきまえずに、ただ好きだと言えば全て許されると思っていた。
求めること、奪うこと、それで愛だと信じていた。
はじめのうちはそれでも平気だったものの、次第にゾロは抵抗するようになった。
こんな所でするな。
今日はやめろ。
気に入らなかった。
おれの存在自身が恋人として否定されているような気がして。
それで他の女を抱いた。
心の中で愛しているのはゾロだけだから、構わないと思っていた。
ゾロが怒れば、じゃあ抱かせろよと言って無理矢理押し倒した。
やさしくなんかしなかった。
ゾロの気持ちなんか、考えたこともなかった。
ただ、おれのことが好きなんだろうと、それだけ考えて。
傲慢そのものだった。
そんなふうで、上手くいくはずなんかなかったんだ。
そのころのおれについて、ただひとつ事実だったのは、
おれは一方的にでも相手のことを考えずがむしゃらにでも、
とにかくゾロを好きだったってことだ。
振り返るとそれだけが唯一の救いだ。
今でも想いは色褪せない。
好きだ。
もう一度会えたら、なんて。
海に溶けた涙を掬い上げるくらい不可能なことだと思っていた。
けれど、叶うはずのない願いを、ずっとずっと唱えるほどに、後悔を。
失ってからもずっとずっと好きなひとに、どうかもう一度会えたら。
「汚いけど」
「お邪魔します」
今、おれの家にゾロがいる。
数年ぶりのこの状況に胸がうずいた。
「この絵、まだ掛けてあるんだな」
あの頃、玄関先の深海の絵をゾロは気に入っていた。
昔からずっとあるこの絵を当時のおれはゾロに言われるまで気にもしなかったけど、
改めて眺めると奥行きのある美しい絵だった。
今一度、懐かしくそれを見る。
ゾロもまた、懐かしそうにしていた。
別れた日のことを思い出す。
そのときはもうおれの家で半ば同棲みたいにして暮らしていた。
喧嘩ばかりしていた。
ある夏のはじめの日、おれが女を抱いて帰ると、
ゾロは荷物をひとつにまとめて玄関に座っていた。
気付けばよかったんだ、ゾロの様子が違うことに。
抵抗しながらも受け入れてくれた、忍耐の塊みたいないつものゾロと違うことに。
それなのにとにかくそのでかい鞄を見たら頭に血が上って、
玄関先で大声でわめきながらゾロに飛びかかって押し倒した。
「女を抱いてきたくせに」
ゾロが抵抗していた腕の力を僅かに抜いて、
小さな、ほんとうに小さな声でもらしたのを、おれが聞き逃すはずはなかった。
「何?嫉妬してんの」
ほら、やっぱり、ゾロはおれが好きだろ。
首筋に顔を埋め、イイところを吸い上げる。
「アっ・・・」
とたんに声を上げるゾロに、おれはいい気になって、シャツの裾に手をかけた。
「やめろっ!!」
右頬に衝撃があって、体が浮いて、気付けばおれ玄関のたたきにしりもちをついていた。
目に映るのは、玄関の正面に掛けられた絵の、深いブルー。
「聞け、よ・・・少しは」
喉に張り付いたそれを無理矢理押し出したようなゾロの声。
ゾロのそんな声は聞いたことがなかったし、ゾロにこんな風に殴られた事だってなかった。
今まで抵抗だと思ってきたそれはちっともゾロの本気じゃなかったことに、今更気がついた。
右頬が痛い。
ゾロの重みがやさしく体を押した。
呆然としているままに、痛む右頬に生暖かい雫が滴った。
「っ・・・サン、ジ・・・!」
続いて、唇のやわらかな弾力が押し付けられて、そこがぴりりと痛んだ。
弾力はすぐに離れていった。
ドアが開いて、好きなひとを失う音が聞こえても、体が動かなかった。
このリアルな痛みですら、夢の中のように遠く感じていた。
そのまま、おれは長い間固まったままだった。
ゾロはいなくなった。
はじめの一週間は、なんでだよとずっと泣いた。
ただ、いなくなってしまったことが、哀しくて、辛くて、淋しくて。
次第に怒りが心に芽生えた。
あんなやついなくなって丁度良かった、おれは女の子と遊べいいし。
開き直ったつもりで、日替わりのペースで彼女を作った。
やがてむなしくなり、淋しさがこみ上げて、弱気になって、後悔ばかりした。
女の子を抱こうとしても、その組み敷いた姿にゾロの顔を浮かべてしまって、
罪悪感にかられて抱くことが出来なくて、言い訳を並べるなんてこともしばしばあった。
こんなに格好悪い自分ははじめてで、それはどう考えてもゾロの所為で、
ゾロがいなくなってしまったのは自分の所為で―――
いつしか飢えた心はゾロ以外を受け付けなくなっていることに気付いた。
あっという間に時間は過ぎておれは大学を卒業し、
学生時代から働いていたジジイのレストランに就職した。
ゾロも一緒に卒業してしまったはずだから、もう接点がなくなってしまった。
動き出すことも出来ないままに、おれはどんどん忙しくなって、
ゾロへの想いを心に住まわせながらも堪えるような日々を重ねた。
しばらく人の肌に触れていない。
だって、ゾロしかいらない。
「うまかった」
おれの冷蔵庫にはたいしたものが入っていなかったから、
乾燥トマトのスパゲッティを作った。
「たいしたもん作れなくて悪かったな」
「いや、相変わらずうめぇよ、お前の料理は」
ゾロの言葉にいちいち心臓がバクバクいう。
つきあっていた頃にだって、ここまで酷くなることはなかったっていうのに。
おれは手にした缶ビールを煽った。
「あ、当たり前だろ」
うまく口が回らない。
アルコールの所為じゃないから辛い。
「それも相変わらずの自信だな」
ゾロもにや、と笑ってビールを煽る。
あ、あ。
勢いよく飲み干すから、その、の、喉が、動いて。
ま、まど、窓を開けなきゃ、とても、とても熱いから。
次に見えたゾロの表情はとてもやさしかった。
「こっちに赴任が決まったとき、嬉しかったんだ」
ゾロはおれの方を見ないで、焦点をずらした。
大切なことを言い出すときの、ゾロのくせ、たぶんおれしか知らない。
「すごく・・・嬉しかったんだ」
なぁ、ゾロ、それは。
期待していいのか?
なあ。
おれの全身が耳になってゾロの言葉を待っている。
「おれはずっと忘れなかった」
おれも、ずっと、忘れてなかった。
「それでわざと毎日お前んちの傍通ってさ」
声が出ない。
「夜、電気がついてるだけで・・・心が浮いて」
固く結んだ握りこぶしが震える。
「今日だって、人目見て、死ぬかと思った」
ひどく熱い。
「自分からいなくなったくせにさ、でも、」
ゾロの視線がおれを射すくめる。
一呼吸ののち、聞こえる。
「おれはずっと会いたかった」
おれだって会いたかった。
ずっとずっと会いたかった。
忘れなかった。
冷凍保存しておいた気持ちが解凍するんじゃなくて、
冷めていた気持ちが再び熱せられるんじゃなくて。
ずっとずっと必死で押し込めていた熱い気持ちが堰を切って溢れ出してしまった。
止まらない。
気付けばおれはゾロに覆いかぶさり、瞳の距離は10センチというところにあった。
「サンジ」
あぁ、わかってるよ。
今度はもう間違えないから。
そんな顔をしなくても、不安なのはお前だけじゃない。
だから、言うよ。
確かめ合うよ。
「ゾロ」
声が震える。
たぶん涙目だ。
やり直すよ。
後悔をぬりかえすよ。
お前がくれた時間を、貴いものにするために。
「好きだ」
ゾロの体が大きく震えた。
「ずっとずっと、ずっと好きだった」
ゾロが唇を噛む。
「忘れなかったし・・・長いこと後悔した」
小刻みにゾロの睫毛がふるえている。
「今も好きだ。会いたかった、ゾロ、ゾロ・・・っ」
息が荒い。
きつく抱きしめても、ゾロの体は壊れそうにないから、ますます力を込めた。
ゾロの腕が恐る恐るおれの背中に回り、シャツをぎゅっと握った。
会えなかった長く貴い時間に熟した心と体が、ようやく触れ合った。
おれはまた、幸せと思う瞬間をゾロにもらった。
今度はちゃんと、ゾロにも与えられている、これは独り善がりではない実感がある。
お互いの肌が溶け合うように熱を共有しているから。
それからおれたちは、はじめてのときよりもはじめてらしいセックスをした。
体をつなげること、快楽を求めることだけを目的とするんじゃなくて、
確かめ合うためのセックスを。
わかっていた以上におれの心は長い間ゾロに飢えていて、
その存在はおれの深くまで沁み込んだ。
ゾロはあの頃よりも余裕のある大人になっていて、
そんなゾロ相手にだからおれは前よりもゾロにやさしくできた。
多分、おれは離れている間にあんまり成長しなかったんだろう。
けれど、今のおれは大切なものは大切にしなければ失くしてしまうことを知っている。
「おい、サンジ起きろ」
目覚まし時計の残酷な音が聞こえて、それがすぐにやんで、
愛しいひとの声がする。
ずっと夢に見てきたからやっぱり夢じゃないかと疑いたくなるけれど、
紛れもなくそこに姿があって、おれはそのぬくもりを感じている。
夢じゃない。
「ん〜・・・」
ぬくもりに頬擦りする。
何も身に着けない生の肌の感触はすべすべしていて気持ちがいい。
「仕事あるんだろ」
「やだ〜・・・行かねぇ、・・・ゾロー」
「だめだ。行け、クビになるぞ」
「ゾロ〜・・・」
ゾロがベッドから体を起こしてしまおうとするから、必死ですがりついた。
もうなくならないと知っているけれど、でも。
「また来るから」
「・・・ん」
「ちゃんとしろ。おれはずっと、お前といるつもりなんだから」
きかないこどもを諭すようなゾロの声。
髪を撫でられて、おれは起き上がる。
「わかった」
二人で一緒に部屋を出た。
鍵を閉めるとき、なにか秘密を共有するこどもみたいな気持ちになって、
おれたちはくすくす笑った。
ゾロの携帯の番号も、今の住所も、行き方も、勤務先も、全部聞いたし、
今夜もまた会いに来てくれるという。
後悔全てをぬりかえすのは大変な作業だけれど、未来に時間はたくさんある。
おれはゾロに会いたかったし、ゾロはおれに会いたかったと言った。
おれはゾロに好きだと告げた。
「じゃあまたな」
「ああ」
それはとても新鮮な、心踊る響きだ。
ずっと、ずっと好きで、今も。
ゾロ、お前が好きだ!
4月の終わりごろのこと。(たぶん)
改行タグを入れることの面倒臭さといったら。
珍しくゾロがちゃんと幸せです。でもね、うちの子ったらよく泣くの。